名古屋高等裁判所 平成3年(ネ)478号 判決 1995年12月27日
控訴人 安立商会こと安立孝雄 ほか二三名
被控訴人 国 ほか一名
代理人 棚橋隆 西森政一 桜木修 ほか一名
主文
一 本件控訴をいずれも棄却する。
二 控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人ら
1 原判決中、控訴人らに関する部分を取り消す。
2 被控訴人らは、各自、控訴人らに対し別紙請求金額目録「請求額」欄記載の各金員を支払え。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
との判決及び仮執行宣言を求めた。
二 被控訴人ら
主文と同旨の判決及び仮執行免脱宣言を求めた。
第二事案の概要
昭和五一年九月の豪雨により名古屋市内の一級河川水場川の下流部域に大量の湛水(以下「本件湛水」という。)が発生したが、本件は、右湛水により住居若しくは事業所に浸水被害を受けたとする住民ら九八名が、河川管理上の瑕疵を理由として、国家賠償法二条及び三条に基づき、河川管理者である被控訴人国及び管理費用負担者である被控訴人愛知県(以下「県」という。)に対し、それぞれ損害賠償を求めた事案である。
右原告らは、本件湛水被害は、増水した水場川からの溢水と、河道に流入せず水場川流域の内水区域(水場川中・下流部域の、水場川増水時に水場川への自然排水が不可能となる区域)に貯溜した内水とが原因であるとし、被控訴人らは右水場川の溢水による責任を負うべきことはもちろん、水場川の内水区域はもともと内水が河川に流入せずに自然滞留しやすい危険地域であるところ、河川管理者はこのような内水の管理についても、危険地域に人命や財産を近づけないようにする方法を併用するなどして災害が発生しないように努める責任があるのに、水場川河口に排水能力の不十分な排水機を設置したまま放置したなどの河川管理上の瑕疵があり、被控訴人らは右内水の湛水についても責任を負うべきであると主張した。
原判決は、本件湛水の原因は、水場川改修計画の規模をはるかに超える豪雨により溢水や膨大な内水湛水を生じたことによるもので、改修中の水場川の改修計画に不合理な点はなく、水場川の管理上の瑕疵は認められないとして、右原告らの請求をいずれも棄却したが、右原告らのうち控訴人ら二四名が控訴した。
当事者双方の主張は、以下のとおり当審における主張を付加するほか、原判決事実摘示のとおり(ただし、原判決A―25丁表二行目「可能」を「不可能」と、同B―51丁裏一二行目「ポスプ」を「ポンプ」と、それぞれ改める。)であるから、これを引用する。
(控訴人らの主張)
原判決には、後記一のとおり国家賠償法二条一項の解釈に誤りがあるほか、後記二以下のとおり事実誤認、理由不備などの違法があり、いずれも極めて重大なものであって、これらの一つ一つが原判決の結論に影響を及ぼすものであるから、原判決は取消を免れない。
一 国家賠償法の基本理念に関する原判決の誤り
原判決は、以下に指摘するとおり、損害賠償法の分野における基本理念である「損害の公平な分担」の法理に基づいて国家賠償法を解釈すべきであるのに、これを疎かにし、かつ、最高裁昭和五九年一月二六日判決(民集三八巻二号五三頁。以下「大東水害最高裁判決」という。)及び原審口頭弁論終結後に言い渡された最高裁平成二年一二月一三日判決(民集四四巻九号一一八六頁。以下「多摩川水害最高裁判決」という。)が判示する「河川管理に関する行き過ぎた諸制約論と過渡的安全性論」に幻惑された結果、国家賠償法二条一項の解釈適用を誤ったものである。
1 国家賠償法の基本理念としての「損害の公平な分担」
(一) 損害賠償制度において、発生した損害の危険負担を誰に負わせるべきかの判断について「損害の公平な分担」の理念が機能すべきことは等しく承認されているところであり、それは憲法一四条、一七条、二五条の具体化がもたらす必然の帰結といってよい。
(二) この法理は、国家賠償法二条の解釈、適用においてもそのまま妥当する。そして、この法理に基づいて国家賠償法二条一項を解釈するときには、社会の一部に生じた損害を共同体におけるコストとして、国家及び地方公共団体を通じて、国民・住民全体で分担するという結論に到達すべきである。この結論は、憲法一四条の「公平」の理念にかなう所以であるとともに、一種の互助の理念を色濃く反映している点は、憲法二五条の趣旨に通じるものである。また、憲法一四条は、行政機関のすべてが遵守しなければならない基本的な憲法規範の一つであり、国家賠償法二条一項の適用を論議する場面でも当然に念頭に置くべきものである。
(三) 河川の管理責任に関していえば、水害の結果として生じた損害の填補のみを求める損害賠償請求において、法解釈の指導理念となるのが「損害の公平な分担」なのであり、防災対策としての築堤義務や排水ポンプ設置義務を直接的に行政に求める場合とは別個の評価が要求されるのである。
また、行政が独占的に管理権限を有し、国民の防災措置を排他的に排除している河川管理(積極行政の法的要請)においては、非排他的行政ないしは後見・監督責任の追及される行政のもとでなされる損害賠償請求に比して、より一層、被害者側の立場に立って、現実的に損害が填補されるよう、発生した損害に対する公平な分担の理念が貫徹されなければならない。
(四) ところが、原判決の理由中にはこうした視点が全く欠落しているといわざるを得ない。
2 河川管理行政の責任の特質
(一) まず、河川管理における国の責任は、しばしば公害や薬害をもたらした加害企業の第一次的責任を前提として論議される国の後見・監督責任とは質的に異なり、自らの手で河川を管理する者が負う第一次的責任であることに十分の注意を払わなければならない。
また、河川管理の権限は中央集権化され、極端な言い方をすれば管理者の許可なくして河川堤防から一木一草たりとも抜き取ることはできないのであり、仮に、国民が当該河川に水害発生の危険性を感じ、私財を投げ打って遊水池を設けたり、河川を改修し、安全のうちに生存したいと考えても、こうした行動は法律上許されないことになっていることに加えて、ひとたび水害が発生した場合には、国民の生命・健康・平穏な生活や基本的財産が瞬時にして奪い去られるのであり、国民の防災行政に対する要請は極めて大きく高いのである。
(二) 河川管理の以上のような特質からすると、河川法一条の定める「河川について、洪水・高潮等による災害の発生が防止され、河川が適正に利用され、及び流水の正常な機能が維持されるようにこれを総合的に管理することにより、国土の保全と開発に寄与し、もって公共の安全を保持し、かつ、公共の福祉を増進する目的」は、河川管理者に対し、憲法二五条の趣旨を最大限具現するための積極的な行政活動・運営を行うことを要請しているものと解すことができ、そうだとすると、河川管理実務及びこれに関する法令の解釈は、河川管理者が右の要請に積極的に応える法的責務を負うとの位置付けと視点に立ってなされなければならないことになる。
とすれば、河川管理責任の解除事由として用いられるようになったいわゆる「河川管理の諸制約」の概念は、憲法第二五条の要請にそった法体系の枠組みのなかで、右の観点からは、厳格に解される必要があり、いささかもこれを拡大して解釈することは許されないことになる。
(三) 原判決は河川管理者の権限分掌や財政問題などいわゆる諸制約に目を奪われて、河川管理行政もまた主権者たる国民に奉仕するとの立場で運営されなければならない行政の一部であるとの基本認識において、重大な誤りを犯したものとの批判を免れない。
3 損害救済上問題となる「管理」について
(一) 国家賠償法の解釈においては、差止請求と賠償違法が厳然と区別される必要があるのであって、賠償が求められているときの「管理」の内容(「救済上の管理」概念)と、行政に防災の作為義務を求める場面での「管理」の内容(「行政上の管理」概念)は異なっているとの認識に立って、その解釈がされなければならない。
被害に対する損害填補としての国家賠償法の解釈においては「行政の管理」概念や行為規範は背後に退き、「救済上の管理」概念や裁判規範が機能しなければならない。
(二) 控訴人らの求める裁判の対象は、全国全ての河川の危険箇所の防災の作為義務を求めるもの(差止請求)でも、水場川についてこうした防災設備の強化という作為を求めるものでもなく、単にごく限定的な損害賠償を求めるものにしか過ぎない。
(三) ところが、原判決は、水場川流域に被害をもたらす降雨を排除するための手法を、必要以上に、新川の改修や水場川河道の改修などと関連づけようとしているのであって、損害賠償が求められている場面での「管理」と、防災上の対策や設備を求められるなど河川管理者の一定の作為が問題となる場面における「管理」とが、全く並列で、かつ、その内容が同一であるとの理解認識の上に立って論議を進めるという誤りを犯したといわざるを得ない。
4 水害訴訟に関する二つの最高裁判決とその批判
原判決は、大東水害最高裁判決及び原審口頭弁論終結後に言い渡された多摩川水害最高裁判決を援用して、河川の設置管理の瑕疵を論じているが、控訴人らが原審において大東水害最高裁判決について述べた批判(原判決事実第二の一5)は、そのまま多摩川水害最高裁判決にも妥当するうえ、さらに、右二つの最高裁判決には、以下のとおりの誤りがある。
(一) 工事実施基本計画を重視することの誤り
右二つの最高裁判決では、河川の災害対策で求められるべき安全性について、「工事実施基本計画」の策定場面で想定された水害発生を阻止するための安全性をもって、原則的にはその上限を定めたものと解し、「工事実施基本計画」が未だ達成されていない場合には、その達成レベルに対応した安全性を具備することを以て足るとの見解を打ち出している。
しかしながら、この見解は、河川管理者が予算の制約を念頭に当面対処し得る可能性あるものとして策定した計画(河川法一六条・同法施行令一〇条)を在るべき安全性の上限として原則的に承認しようとするものであって、右二つの最高裁判決が営造物の設置・管理の瑕疵の客観的定義として述べている部分との整合性に欠ける点を指摘できる外、河道整備重視の伝統的手法を墨守してきた河川行政の姿勢と在り方(すなわち、伝統的な河川行政の考え方では、<1>河道内に収容された降雨を河道外に溢れさせることなく河口まで流下させることが職分とされ、<2>その管轄は「河川区域」(河川法六条)・「河川保全区域」内に止まるのであって、右以外の流域の降雨については内水管理者の所管であるとの立場をとり、工事実施基本計画も全てこの考えに沿って作成されている。)を手放しで免責するものであって、大きな誤りを含むものと言わざるを得ない。
伝統的手法による河川管理の在り方の不合理性と誤りは、遅くとも昭和四〇年代には強く指摘されるようになっており、遅まきではあるが、昭和五二年以来建設省自身も「水害」を河道の中に力で封じ込めるという従来の工事実施基本計画の誤りを認めてその修正を行ってきている。
すなわち、昭和五二年六月、河川審議会の建設大臣に対する「総合的な治水対策の推進方策についての中間答申」は、従来の河道のみを対象として力づくで水害を押さえ込もうとする治水計画から、流域全体を対象にいれた弾力に富んだ治水計画への転換を提唱し、建設省は右答申の具体化として、総合治水対策特定河川事業を発足させ、新川についても、昭和五五年九月、右事業の対象に指定されている(このことは河道のみを重視してきた新川とその支川に関する工事実施基本計画の誤りを河川管理者が自認したものと評価すべきである。)。さらに、昭和六二年三月、河川審議会は建設大臣に対し、大都市周辺の河川氾濫原を念頭に置いて、工事実施基本計画を上回る洪水に関し「超過洪水対策及びその推進方策について」と題する答申を行ったが、その中で「大都市流域の大河川において、計画高水位を上回る、又はそのおそれのある洪水すなわち超過洪水等に対して、破堤による壊滅的な被害を回避するため、その主要な施策として、当該大河川の特定の一連区間において、幅の広い高規格堤防の整備を進めると共に、地域を洪水から防御するための新たな治水対策として、水防災対策特定地域を設定し、関連する施策を実施することについて、早急に検討を進め、その実現を図るべきである。通常の改修方式によらず、地域の選択により、土地の有効利用を図りつつ、住宅等を洪水から防御するための水防災対策特定地域の設定を行うことを検討すべきである」と述べている。
右二つの答申に盛られた内容からは、建設省がすでに、明治時代以来一貫して採用してきた物理的な力で「洪水を防ぐ」という対応姿勢の誤りを認めて、「水害を軽減する」という、古くもあり、また新しくもある治水思想への転換を図っていることを読み取ることができる。
ちなみに、昭和六二年五月、資源調査会の科学技術庁長官に対する「都市部における雨水貯留浸透機能の強化に関する調査報告」と題する報告でも、右二つの最高裁判決が援用する従来の河川管理の姿勢の誤りを認める立場に立ち、「これまで都市から早期に排出し資源として等閑視してきた雨水を積極的に貯留、浸透することにより、洪水被害の軽減や遊水池等による都市水辺環境の創造、地下水位の復活による湧水の復元や緊急非常時水源の確保を図るなど、多元的な対応を行うこと」が必要であるとしている。
(二) 災害に対する「予測」の捉え方の誤り
営造物の設置・管理の瑕疵概念の解釈の場面においては、人間社会に損害をもたらす災害の「予測可能性」の問題は、<1>直接的に損害をもたらす現象(例えば破堤・溢水・湛水など)に対する予測と、<2>右のように損害をもたらす現象の誘因ともいうべき自然現象(例えば大量の降雨・強い風浪など)に対する予測とに分けて論議されるのが通例であった。
ところが、右二つの最高裁判決が、改修中の河川管理の安全性は「過渡的安全性」(大東水害最高裁判決)若しくは「河川の改修・整備の段階における安全性」(多摩川水害最高裁判決)で足りるという考え方を採用したため、まず、<1>こうした自然現象が工事実施基本計画上の予測の範囲に入っていたかどうかが諭議されることになり、予測の範囲内になければ、もともと安全性の上限を超える予測不能ということで原則的に河川管理者は免責されることになり、また、<2>右工事実施基本計画の予測した範囲内にあったとしても、段階的な整備との関係で整備・改修が未だ対応したレベルに達していなければ、予測できていても河川管理者は免責されることとなり、整備・改修が予想された現象に対応している筈であるにもかかわらず工事実施基本計画の対策が期待された安全の確保に失敗したときに初めて、河川管理者の設置・管理の瑕疵を問い得るということになるように考えられる。
前記のような災害についての予測の考え方は、予測の範囲内の災害についても免責を認めるという点において、河川のみを、道路・公園施設・建物付属設備などといった他の工作物の場合において災害との関連を議論する場合の「予測可能性」と明瞭に区分して扱おうとするものであり、従来の国家賠償法二条一項に関する確定した判例・通説を理由なく変更するものとの批判を免れないというべきである。
(三) 道路と河川の差異を強調することの誤り
右二つの最高裁判決は、改修中の河川管理の安全性は「過渡的安全性」(大東水害最高裁判決)若しくは「河川の改修・整備の段階における安全性」(多摩川水害最高裁判決)で足りるとしたことの根拠として、河川と道路との間に、その性質において大きな差異あることを強調するが、営造物を行政庁が如何に管理するかという問題(行為規範の問題)と、事後的にどの点に瑕疵があったと評価するか、どの範囲にまで被害者を救済すべきと考えるかという問題(裁判規範の問題)とは別個の問題であり、こと裁判規範のレベルで考える限りにおいては、河川と道路の違いを強調することは誤りというべきである。
すなわち、最高裁判決が指摘するように、河川は自然のままに存在しており、しかも、もともとから人類にとって有用であるけれども危険なものとして存在しており、道路のように一時閉鎖という手段も取ることができないという面はある。しかし、道路も放置しておいたのでは危険な箇所が生じ、しかも、これを一挙に改善するのは不可能であって、その場合計画的に漸次になされなければならないことは河川の場合と同様である。また、ある欠陥道路で損害賠償が判決で認められたとしても、直ちに同種の道路を一斉に修繕するとか通行停止にすべきだということにはならない。危険箇所の修繕それ自体は河川の場合と同様、全体の予算との関係で逐次なされていくことにならざるを得ないし、その意味では、道路の維持管理という行政のあり方と、損害賠償による救済の在り方にはずれがあることに注意すべきである。このように、損害賠償請求を認容する場面での「違法」概念は、管理状況を「違法」とする場合の違法概念よりも広いというべきであるが、この「違法性」の概念が一義的・絶対的な概念ではないこと(違法性の相対性)は広く承認されているのである。
(四) 設置・管理の「瑕疵」に関する立証責任の分配の誤り
(1) 立証責任分配の誤り
大東水害最高裁判決はいわゆる「過渡的安全性」の主張・立証責任について直接判示していないところ、「瑕疵」の存在につき原告側に主張責任がある以上、いわゆる「過渡的安全性」の不存在(を根拠づける事実)についても原告側に主張・立証責任があるとする見解があるが、右見解は誤りというべきである。
大東水害最高裁判決は、「瑕疵」の存否の判断にあたって、「過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度」等諸般の事情(ここで挙げられている項目は全て例示に過ぎないと読める。)を総合的に考察した上で、しかも、「同種・同規模の河川の一般的水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性」の有無を判断すべきであるとする。
しかしながら、「同種・同規模の河川の一般的水準」を知るためにこれら諸般の事情の有無を立証するということは、結局日本全国にある無数の河川につき諸般の事情を立証しなければならないことにならざるを得ないのであるから、仮にかような諸般の事情を立証し得る者があるとすれば、国家予算に依拠して膨大な資料と情報を収集できる河川管理者以外には考えられない。
したがって、原告住民側が、災害の発生とそれによる損害の発生を主張・立証し、営造物が通常有すべき安全性を欠如していたことを一応証明したときには、被告行政側において「同種・同規模の河川の一般的水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていた」ことにつき挙証責任を負うものとするのが公平かつ妥当というべきである。
このように解すべき根拠として、営造物を管理できるのは国または公共団体だけであること、それが一般公衆の用に供されており、人々は安全であると信頼し、かつ、その安全確保を期待していること、国または公共団体は営造物に関する資料と十分な調査能力を有しており、かつ、管理者として当然調査すべき義務を有していること、事故当時の現場保存を為しうること、民事訴訟法三一二条の文書提出命令が必ずしも被害者にとって有効な資料獲得手段たり得ていないこと、管理者において営造物の設置管理の正当性や不可抗力等を証明することのほうが、被害者において管理上の手落ちを証明するよりは容易であると考えられること等の事情が存すること等の事情も存する。そして、仮に、原告住民側に立証責任があるとすれば、「瑕疵」の存在についての手持ち資料に乏しく、また適確な情報蒐集能力に劣る原告住民側にとっては、司法救済の門戸を事実上閉鎖される結果となる危険が大きいというべきである。
(2) 「瑕疵」についての判断基準の不整合
そもそも、国家賠償法二条一項に関し、大東水害最高裁判決の要求する判断基準自体が、司法審査の仕組みになじまない不当な内容となっているというべきである。
大東水害最高裁判決の述べる瑕疵基準は、河川がいまだ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至っていない場合には、当該河川の管理についての瑕疵の有無は、<1>過去に発生した水害の規模、<2>発生の頻度、<3>発生原因、<4>被害の性質、<5>降雨状況、<6>流域の地形、<7>その他の自然的条件、<8>土地の利用状況、<9>その他の社会的条件、<10>改修を要する緊急性の有無及び<11>その程度等、<12>諸般の事情を総合的に考慮し、河川の特質に由来する財政的、技術的及び社会的諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであるし、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右の見地から見て格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、または工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由がない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである、というものである。
右基準に則って具体的検討作業を進めるとすれば、日本全国に存在する全部の河川の中から当該河川と「同種・同規模の河川」を選び出し、その各々について<1>ないし<11>を含む「諸般の事情」を総合判断して「一般水準」を知らねばならないことになるのである。
しかし、かかる膨大な作業を裁判の審理の中で行うことは不可能といって過言ではなく、裁判所がそれを適用したとしても、河川管理者の裁量を追認する結果に終わりかねない危険を持っているものであって、右判断基準は不合理というほかはない。現に、大東水害最高裁判決の後言い渡された著名な水害訴訟判決は、いずれも大東水害最高裁判決の期待するような「同種・同規模の河川の一般基準」の具体的中身の検討に立ち入ることなく、これを注意深く避けて、単に治水投資額や改修率の比較で格別不合理ではなかったとして被害住民を敗訴させており、これら判決は、大東水害最高裁判決が使用したのと同じ文言を例外なくきらびやかにちりばめてはいるが、大東水害最高裁判決に倣って同様の消極的な瑕疵認定をする上での単なる修飾語でしかないのである。
(五) 以上のとおり、そもそも大東水害最高裁判決の示した瑕疵の認定基準そのものに重大な欠陥があるといわざるを得ないのであって、これに依拠して控訴人らの主張を退けた原判決も破棄を免れないというべきである。
(六) 原判決の示す瑕疵判断基準の誤り
仮に、大東水害最高裁判決の示した瑕疵の認定基準に立つべきだとすれば、河川管理の瑕疵の検討を進めるためには右最高裁判決の掲げる<1>ないし<11>の要検討項目の全てについて漏れなく具体的検討を行うことが必要不可欠であるというべきところ、原判決は、原判決理由中の八「水場川の管理上の瑕疵の有無について」の項において、「水場川改修計画の不合理性の有無」について述べてはいるが、前記<1>ないし<11>の事項のうち、<1>ないし<10>の事項を考慮事項から外している(ただし、別の箇所で検討を行っている事項もあるが、全ての事項にわたるものではなく、かつ、右認定事実が「計画自体の不合理性の有無」の判断においてどのように扱われたのかも不明である。)上、水場川に限っての判断をするのみで、全国の同種・同規模の河川との比較検討を行っているわけでもないから、原判決はこの点について明らかに理由不備・判例違反があるといわざるを得ない。
二 原判決理由五「本件豪雨について」における、本件水害発生に至る降雨状況についての原判決の事実誤認について
1 原判決は、本件水害発生に至る降雨状況を認定するについて、雨が降り始めた九月八日午後二時すぎから、雨が終息した九月一三日午前までの降雨を対象としている。
しかしながら、原判決の右認定は、浸水被害の始まった時点における降雨量と水場川の災害対策上の基準雨量についての対比・検証をなおざりにしたままで、浸水被害の全部と全体としての降雨量との関係を論じたものであり、事実認定上大きな誤りを犯したといわざるを得ない。
2 また、原判決は、九月八日午後二時から一〇日午前零時までの降雨を全体として第一波の降雨として捉えている。
しかし、西部消防署の観測値による本件水害当時の時間雨量を仔細に検討すると、この第一波の降雨は九日正午に一旦降り止んでいるのであり、かつ、この時点までに、水場川が溢水し、内水湛水位も上昇し、床上浸水の被害が生じている。
したがって、この九月八日午後二時から九日正午までの降雨を「第一波の降雨」のうちの「第一次降雨」とし、これを本件水害被害を発生させた連続的な降雨として考察の対象とすべきである。
そして、この第一次降雨は、日雨量二〇九ミリメートル、時間最大雨量三〇ミリメートルに過ぎないところ、これは、以下の資料からみても十分予見し得る降雨量というべきである。
(一) 実績雨量
(1) 西春日井郡西春村外二村水場川改良計画に掲げられている過去一八年間(大正九年から昭和一二年)の最大日雨量二五〇・〇ミリメートル(昭和四年八月一五日)
(2) 昭和二八年水場川土地改良区区画整理事業計画に掲げられている明治二六年から昭和二四年までの降雨量調査の最大日雨量二四〇・一ミリメートル(明治二九年九月六日)
(3) 水場川全体計画調査報告書の排水ポンプ容量の検討にあたって参考とされた実績洪水の降雨量
<1> 昭和四六年八月三〇日洪水(名古屋地方気象台)
時間最大雨量三四・五ミリメートル、二四時間最大降雨量二七七・五ミリメートル、総雨量三二二・〇ミリメートル
<2> 昭和四九年七月二四日洪水(小牧市)
時間最大雨量六七・〇ミリメートル、二四時間最大降雨量二〇〇・〇ミリメートル、総雨量二〇〇・〇ミリメートル
(二) 計画雨量
<1> 県営湛水防除事業計画の計画降雨量
三日間連続雨量三四〇ミリメートル、日雨量二四〇ミリメートル
<2> 河川激甚対策特別緊急事業の計画降雨量
日雨量一五八ミリメートル、最大時間雨量五〇ミリメートル
<3> 水場川全体計画調査報告書の計画降雨量
確率/mm
最大二四時間雨量
最大一時間雨量
五年
一五九
四九
一〇年
一八四・五
五八
三〇年
二四一・五
七六
3 してみると、九月九日までの第一波の第一次降雨には、原判決が指摘強調するような異常性のないことはあまりにも明白であるから、九月九日の時点で既に本件浸水被害が発生したことが、被控訴人らの河川管理上どのような意味を持つかが議論されなければならないのである。
三 原判決理由六「河道からの溢水の有無について」における原判決の事実誤認について
1 溢水状況について
(一) 原判決は、溢水状況について、九月九日午前の時点では水場川が溢水した事実はなく、同日午後三時ころに排水機場付近において水場川が溢水するに至ったと認定しているが、原判決の右認定は誤りである。
(二) 実際には、水場川は九月九日午前七時三〇分ころ、最下流部(新川町、西区新木町及び同十方町地内)において、河道内の外水が左岸堤防を乗り越えて溢水し、溢水は時間経過に連れ順次上流部に進んだものであり、このことは、原審証人茶谷弥七、同横森今朝行、同服部幸吉、同増田勇、控訴人高田堯、同安立孝雄の各目撃供述によって優に認められる。
しかるに、原判決は、右各供述は、その内容や日付の記憶に曖昧な点があり、いずれも採用し難いと簡単に排斥するが、被害地域に居住し、各自本件水害を経験した者らがそれぞれ自己の体験を法廷において証言しているのに、一括して右のとおり排斥するのはおそるべき粗雑な事実認定といわざるを得ないし、個々の供述を検討しても、いずれも眼前で確認した溢水の状況を自己の記憶に忠実に供述するもので、内容や日付に曖昧な点があるとはいえない。
とりわけ、原審証人横森今朝行は、株式会社木村コーヒー店名古屋工場長であり、出勤途上に歩いて通った堤防上の道路で、自ら溢水する水で長靴を洗い、素足を踝まで水に浸した体験に基づく溢水の記憶を証言しており、内容や日付が曖昧であるとは到底いえない。これに対し、右横森証言と抵触する内容の供述をする原審証人石田耕治は、当日排水機場の勤務交替時間に遅れることは必至で極めて焦っていたことは推測に難くなく、また、重中橋から水場川左岸を排水機場まで車で走行したにすぎないところ、車の走行に支障がなければ、堤防上の道路の状態や、水場川の増水の程度について注意深く観察したとは考えられず、結局、冷静な注意深い観察者とはいえないから、その供述が右横森証言より信用性が高いとすることはできない。
また、控訴人高田堯本人と抵触する内容の<証拠略>は、排水機場前の水場川の水位に対する記憶から、北野橋から笠取橋の間の水位を推し量っているもので、実際の記憶に基づくものではないし、原審証人早川宗一の供述は、反対尋問で水場川の目撃状況に触れたものにすぎない上、「平水」より多少深かったとの曖昧な供述にすぎないもので、いずれも信用性がなく、控訴人高田本人の供述を排斥し得るようなものではない。
(三) さらに、溢水の状況が控訴人ら主張のとおりであったことは、<証拠略>、さらに、本件水害後間もない時期に、水場川堤防が相対的に低く、溢水を生じた部分に溢水防止を目的としてパラペットが設置された事実などからも裏付けられる。
原判決は、甲第九号証について伝聞に過ぎず、作成者は溢水事実を目撃していなかったことを理由として採用し難いというが、甲九号証は私人のメモや報告ではなく、浮野小学校の名古屋市教育委員会に対する公文書であって、作成名義人である浮野小学校長矢島英勝が、同校教頭で起案者である林満とともに、浮野学区内の複数の住民からの報告を聞き、これをまとめたものであって、十分信頼することができる。
また、本件水害後間もない時期に、水場川堤防が相対的に低く溢水を生じた部分に、溢水防止を目的にパラペットが設置されたことについては、河川管理者が再度同一地点から溢水被害を生じた場合の責任追求をおそれて、こうした危険箇所にパラペットを設置したと解するのが相当であり、このパラペットの設置からも、多くの地点で溢水を生じたことが十分推知し得る。
2 <証拠略>(水場川流域における昭和五一年豪雨時の湛水状況再現計算書、以下「再現計算書」という。)について
(一) 再現計算書の再現計算結果は、以下のとおり到底信用できない。
すなわち、現在、内水災害の氾濫解析は、高精度の二次元不定流解析モデルにより行われているが、このモデルにおいて実測データを用いた検討により各種パラメーターを設定したとしても、計算値と実測値を地点・時間・水位について整合させることは、未だ困難な状況である。
しかるに、本件の再現計算書では、格段に精度の低い一次元不等流解析手法を用いているが、この手法では、パラメーターの設定が正しく行えずその設定誤差が累積して、正確な実測データがあっても、地点・時間・水位を実測に近い推定値として予測することができない。
また、本件内水災害では、モデル計算の上で重要な時間と水位の実測データが存在せず、有効雨量や粗度係数の設定においても実測値を用いた検討がされていない。
このため、再現計算書では、各地点における水位の時間的変化を計算しても実態に近い形で再現することができない(むしろ、計算者の意図に計算結果が合うようなパラメーター等の設定が可能である。)。
(二) 水理モデルによる計算の結果については、せめて一地点における値でも実測値と照応しないことには、そのモデルの正当性を主張することはできないところ、再現計算書では、計算結果と実測データとの照合、検討という作業を軽視し、回避している。
なお、再現計算書が唯一触れている新川における水位計算結果と実測値の比較についてみても、計算結果と実測値の乖離が異常に大きく、その手法の誤りを強く示唆している。そして、水場川流域の内水計算に関しては、実測値との照合という作業が全く行われていないのである。
本件の再現計算書の流出モデルによる再現計算の精度が以上の域を超えないものであるにもかかわらず、再現計算の結果が、控訴人らが河道からの溢水を現認したとする地点について、九月九日午前中には溢水を生じていないこととなっているのは、予めこの地点に関する九月九日午前中の水位と流出量を与条件として流出モデルに与えた上で、有効雨量・粗度係数・流量係数等といったパラメーターの数値を逆に規定していく方法で再現計算が進められたためだと解するのが相当である。
(三) 原判決は、再現計算書による再現計算について、これを無批判に受容することはできないとしながら、その計算の結果が他の信用するに足りる証拠により認定できる事実と客観的に符合する限りにおいては、この結果を採用することもできると判示するが、誤りである。再現計算の結果の信頼性を確保するのは、再現計算自体において、実測データが収集され、右データとの対比・検証が十分なされることである。
さらに、原判決は、右計算の結果につき、第一ないし第六のいずれの地点においても九月九日の午前中に外水位が堤防高を越えたことはない点は、溢水状況についての事実認定と符合するから採用できると判示する。
しかしながら、右溢水状況の事実認定は、主として被控訴人側の目撃証人の供述に基づくものであるが、右証言の信用性の評価自体に再現計算の結果が影響している可能性があり、このような議論の進め方は誤りである。
また、そもそも、再現計算の結果と原判決の溢水状況についての事実認定とは符合しているとはいえない。ちなみに、原判決は、九日午後三時ころ排水機場付近において溢水したと認定しているが、再現計算書の5ブロックに関する図―10の5によれば、九日午後三時において、最下流のA河道の最低溢流堤高よりブロック水位は約二〇センチメートル、A河道水位は約三〇センチメートル下なのであり、外水位、内水位とも堤防高を越えていないし、原判決は、大曽根芳朗の証言に基づき、一〇日午前七時半から八時ころ、第一地点で溢水した事実を認定しているが、再現計算書の図―10の4によると、第一地点である4ブロックD河道では、河道最低溢流堤高は三・三四メートルであり、D河道水位がこれを越えたのは、九日午後一〇時から一〇日午前二時にかけてであり、午前七時半から八時ころには溢水はあり得ないこととなるのである。
原判決の認定は、むしろ、再現計算の結果を前提としてなしたもので、作為的なものというべきである。
3 外水・内水の割合について
(一) 原判決は、被害発生に寄与した外水・内水の割合について、<1>河道からの外水の溢水が始まる前に、既に大量の内水が堤内地に湛水していた、<2>堤内地を湛水させた原因は、その殆どが内水である、<3>再現計算書によれば、河道からの溢水は堤内地の湛水の〇・一ないし〇・二パーセントである、<4>内水と外水の割合は、〇・一ないし〇・二パーセントである、と認定する。
(二) しかしながら、右<1>及び<2>の事実については、これを認めるに足りる証拠がなく、特に<2>の事実の肯認については全く独断と言わざるを得ない。
なぜなら、水場川水位上昇時に、雨水の水場川への自然流下が不可能であるということは、水場川の水位上昇が必然的、連動的に流域の内水排水の阻止(不可能)をもたらすという事実を裏付けるのみであり、溢水の事実を否定する根拠とはなり得ないからである。
また、<3>については、再現計算書は、流域面積の設定その他仮定に基づく机上計算にすぎず、その計算結果に依拠することはできない。
(三) 以上のとおり、原判決の前記(一)の<4>のようにいうことはできず、むしろ、<1>河道からの溢水、<2>河道に流入できないため上流域から本件被害地域に流れ込んできた水、<3>河道に流入できないで湛水した本件被害地域への降水、これらが渾然一体となって、本件被害を発生させたというべきである。
四 原判決理由七「本件水害の原因」における原判決の事実誤認、理由不備について
1 水場川における水流量等について
(一) 内水を考慮しないことについて
原判決は、時間雨量五〇ミリメートルの降雨の際の水場川河口部の出水量の具体的算定にあたり、中・下流部域の雨水はマイターゲート・フラップゲートの作用により流入しないとした上、一定の水量が河口部に貯水することまで前提としており、流域から排除すべき内水の存在をまったく考慮に入れていない。
しかしながら、他方、原判決は、河川の改修計画にあっては、内水もまた河川管理者が流域外に排除する対象とすべきであると判示しているのであって、論理が一貫していないことは明らかである。
そして、時間雨量五〇ミリメートルの降雨の場合、内水区域の地区内水路に設けられているマイターゲート・フラップゲートが閉まり、この区域から水場川へ内水が流入することはない事態は、まさに内水排水について河川の機能を果たしていない状態を意味するのであって、右降雨の場合の河口部出水量が一五立方メートルであるというのは、内水についての河川の瑕疵の存在を前提とした議論といわざるを得ないのである。
原判決が正しく指摘するように、内水の排水をも視野に入れて検討すれば、時間雨量五〇ミリメートルの降雨のあった際には、水場川中・下流部において、降った雨水等を集めてこれを安全に流下させ排水する機能はないとの結論に到達せざるを得ない。
(二) 河口部出水量等の認定について
原判決は、水場川中・下流部を流下する洪水量は、毎秒約一五立方メートル位を超えることは認め難いと判示しているが、その証拠は明らかでない。しかるに、右一五立方メートルの数値は原判決の判断の原点ともいうべきところであるから、その理由を欠く原判決は、根本的な事項について理由不備があるというべきである。
さらに、原判決は、毎秒約一五立方メートル程度の洪水が水場川の河口に到達したとしても、右洪水は河口排水機(一〇トンポンプ)の排水能力と河口部の貯水能力とによって、水場川の河道から溢水することなく新川に排水され得たと判示しているが、その前提となる出水時間、貯水容量等が明らかでなく、この点の判示も理由不備がある。
2 内水湛水について
(一) 原判決は、本件のような豪雨に際しても、水場川が流域内に湛水被害を生じさせることなく、内水を集めて流下させる機能を果たさなければならないとすることは、その流下能力からいっても到底無理であったと判示しているが、右認定は、本件被害地域の湛水被害を考慮して排水ポンプの規模を適切なものにすれば、本件水害を防ぐことができた事実を無視するもので、誤りである。
(二) すなわち、排水能力毎秒五立方メートルの排水ポンプは、一時間に一万八〇〇〇立方メートル、一日で四三万二〇〇〇立方メートルの排水をすることが可能である。
再現計算書による、九月九日午前一〇時半には5ブロックの内水湛水量が全体で約四一万立方メートルに達するとの仮定が正しいとすれば、床下浸水が始まった九月八日午後の時点で、当時設置されていた排水能力毎秒一〇立方メートルの排水ポンプを適切に稼働させることで、稼働後一日(八六万四〇〇〇立方メートルの排水が可能)で対応する内水全部を排水することができ、同月九日の内水被害(床上浸水)は発生しないことになる。
つまり、本件水害時の豪雨に対しても、排水能力毎秒一五立方メートルの排水ポンプが設置されていたなら、本件被害地域での内水被害(床上浸水)は発生していないことになるのである。
なお、水場川は、中流部の河道能力は毎秒二〇立方メートル、下流部の河道能力は毎秒三〇立方メートルであり、右排水能力毎秒一五立方メートルの排水ポンプの能力を目一杯発揮させるだけの河道能力を充分に持っていたものである。
五 原判決理由八「水場川の管理上の瑕疵の有無について」における原判決の事実誤認、理由不備等について
1 原判決の論理矛盾、理由不整合について
原判決は、時間雨量五〇ミリメートルの降雨に対処するという被控訴人国の中小河川改修事業における行政目標の、水場川における達成状態について、以下のとおり二通りの評価をしており、行政目標の位置付けと評価に矛盾と混乱がある。
すなわち、原判決は、一方で、水場川において時間雨量五〇ミリメートルの降雨があった場合の河口部に集まる水量を毎秒約一五立方メートル程度とした上、本件水害当時設置されていた排水機(一〇トンポンプ)と河口部の貯水能力とによって、十分対処できるとし、河川改修計画に定める計画対象降雨規模の降雨に対して通常の安全性を有していたとして、右行政目標を達成していた趣旨の評価を与えている。そして、既に行政目標を達成しているという観点から河川管理者の無責を結論づけている。
他方において、原判決は、先ず水場川の河道改修は行政目標(時間雨量五〇ミリメートル)における水流量を計画高水流量とし、下流部ではこれを約三〇立方メートルと認めるべきであるとした上、河道については、本件水害当時右計画高水流量相当の流下能力を備えているから、工事実施基本計画に基づいて改修・整備が完了していたけれども、河口排水機については、昭和四九年に増設に着手し、建設中であった排水機(二〇トンポンプ)が完成したとき初めて右計画高水流量相当の毎秒約三〇立方メートルの排水能力を備えることになるのであるから、この面からすると、水場川は、本件水害当時、右計画高水流量に対処するための改修工事が未了であったことになると述べて、河川管理上の行政目標は未だ達成されていないという位置付けに立ち、改修中河川の改修計画の不合理性の有無の検討を行っている。
原判決の展開するこれら二つの論理に矛盾と不整合があることは極めて明らかである。
2 水場川改修計画における不合理性について
(一) 湛水防除事業計画において設置した排水機(一〇トンポンプ)の不合理性について
原判決は、湛水防除事業計画において設置した一〇トンポンプの不合理性をいう控訴人らの主張につき、同計画の採用した計画対象降雨と排水量決定の経過を指摘したにとどまり、同計画の当否についての判断をしていない。
同計画の想定によれば、都市化の進行が著しい水場川下流域の河道は、毎秒一七・五立方メートルの流量を流下させなければならないこととなるはずであり、控訴人らの主張する右事業計画の不合理性についての判断を示さない原判決に理由の不備のあることは明白である。
(二) 改修前の井堰等の効用と河道改修の影響について
原判決は、水場川の河道の改修前に存在していた井堰は用水の取水のための施設であると認められるところ、この井堰や上・中流部の複雑なループ状の河道が洪水調節の機能を果していたと認めるべき証拠はなく、かえって改修前の狭小かつ複雑な河道のために排水状況が著しく劣悪であったことが認められる上に、下流部域はもともと内水湛水を生じ易い地域であることに照らしても、河道改修が行き場のない内水を湛水させたというものでもないと認定し、河道改修前の上流部域の保水機能を指摘した控訴人らの主張を排斥している。
しかしながら、右認定判断は、水場川下流部域(本件被害地域)の内水湛水の発生メカニズムについて誤った理解と認識に立ち、この点に関する控訴人らの主張を正しく理解しないまま、これを排斥したもので、事実誤認、理由不備があるというべきである。
すなわち、原判決の指摘する上・中流部域の排水状況が著しく劣悪なことは、まさに控訴人らのいう「上流部域での保全機能」の意味にほかならない。河道改修前の井堰の複雑なループ状の河道が分布する上流部域に多く広がる田畑は、短時間の冠水にも強く、隠れた遊水池として雨水を貯溜する機能にすぐれており、宅地化の進行が著しく、住居と事業所の密集する下流部域へ短時間に雨水が到達することを遅らせるものとして、防災上極めて有益であったのである。
また、原判決は、下流部域はもともと内水湛水を生じ易い地域であるとも述べているが、下流部域に内水湛水が生ずるのは、下流部河道の流量増加によって下流部域の内水が水場川に流入することができなくなるからであって、こうした状況が更に内水湛水被害を発生・拡大させているという関連に、ことさら目を背けたものとの批判を免れないのである。
(三) 河道改修と河口排水機(二〇トンポンプ)の設置の先後について
原判決は、昭和五四年九月に水場川の河口排水機場に設置された二〇トンポンプについて、新川の河道整備の前に、水場川の河口排水機場に河口に見合った排水機を設置することが不適当であったかのような認定をしている。
しかし、新川はもともと庄内川の放水路(人工公物)であって、安全性を備えた「人工の川」として設置された筈であるから、水場川の河口排水機の設置について、右のように述べること自体大きな矛盾を孕むものといわなければならない。
すなわち、新川は水場川との関係では、新川が下流、水場川が上流と同様の関係にあるので、水場川の河道改修、河口排水機の設置に当たっては、出水時の新川の安全度を低下させないようにするとの配慮が当然必要となるのである。したがって、水場川と新川との合流点での排水機設置が新川の治水安全度を低下させるとの理由からできないというのであれば、その段階では、水場川の治水事業として排水機設置を必要とする河道改修を行うべきではなく、水場川改修前に同河口部に河道に見合った排水機を設置できる程度に、新川の改修工事を先行させるべきなのである。
水場川の河道改修と、新川の河道改修は、まさしく上流と下流における河道改修と、同様の関係となるのであり、新川の河道改修に先行させて水場川の河道改修を行う特段の必要性、合理性は全くないのである。
原判決の右認定は、右前提となるべき河道改修の順序を無視した上でなされており、極めて重大な事実誤認であるといわなければならない。
水場川の河道改修と排水機(一〇トンポンプ)の設置は、本件被害地域の市街化を進行させ、被害発生の誘因となったにすぎず、本件被害地域の治水安全度の向上には何らの貢献もしていないものと評価しなければならない。水場川の河道改修には、河道見合のポンプ設置が不可欠のものだったのである。
3 早期の改修事業を施行すべき特段の事情の有無について
(一) 河道改修後の排水ポンプの能力について
原判決は、水場川は、河道改修後も、前記計画対象降雨の規模の降雨に対しては、一〇トンポンプで対処し得たものと認められ、市街化による地域の保水機能の低下を考慮しても、右計画対象降雨の規模の降雨から生じる洪水に対し直ちに改修を要すべき危険な状況にあったとは認め難いと認定している。
しかしながら、右認定は、河道改修後も水場川流域では、災害対策の基準降雨内での降雨により、度々浸水被害を生じているという客観的事実をことさら無視したもので明らかな誤りである。
すなわち、本件被害地域では昭和四二年、昭和四五年に水害があり、他方、昭和四〇年代後半頃には平田地区を中心として、水田地帯から住宅地、商店、事業所等の林立する新しい市街地に変貌していったのであるが、その際、昭和四五年一〇月に一〇トンポンプが設置されたことは、関係住民らに対し、以前に発生した水害の危険は過去のものとなったとの安堵感を与える上で大きな役割を果たしたことは容易に推知し得る。
しかるに、本件被害地域では、昭和四九年にも水害が発生したものであり、右一〇トンポンプの設置が市街地化を促進する機能のみを持ち、計画対象降雨の規模の降雨による地域の湛水発生に対し何らの効用を発揮していないことが明らかとなり、真に改修を要すべき危険な状況にあったというべきである。
(二) 平田終末処理場の建設について
(1) 庄内川北部流域雨水整備計画の実施
名古屋市は、公共下水道事業の一環として、庄内川北部流域の雨水整備計画(事業認可昭和五九年一一月七日、変更認可平成四年一〇月二一日)を進めている。右計画においては、庄内川北部に位置する平田処理区を対象の一つとし、同地域の雨水については大部分がポンプ排水区であるとした上で、雨水排除のために平田終末処理場内ポンプ場及び喜惣治ポンプ場を建設すること、さらに右変更計画では雨水調整池の併設を内容としている。そして、右のうち平田終末処理場内ポンプ場及び併設雨水調整池については、平成四年度に工事着手し、平成九年度完成予定を目途に建設工事を進めているところである。なお、右ポンプ場による排水対象地域はおおよそ水場川流域と重なるものである。
右計画では、対象降雨時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)を設定し、これに対応するために必要なものとして、ポンプ施設の新設による強制排水を位置付け、その新規設置ポンプ排水量を毎秒一九・二五立方メートルとする。右の結果、従前の湛水防除事業計画の一〇トンポンプ、河川激甚災害対策特別緊急事業計画の二〇トンポンプの二つと合わせ、水場川流域の出水に対応するポンプ排水としては、毎秒五〇立方メートルの排水能力を有することとなる。さらに右変更計画では、時間雨量六〇ミリメートル(一〇年確率)に対応する雨水整備計画として、右ポンプ強制排水では不足する出水分をピークカットするため、平田終末処理場内に雨水調整池を併設するものとしている。
(2) 下水道排水施設と水場川河口の排水の関連性
右雨水整備計画でのポンプ排水は、水場川流域での出水(内水)を水場川を経由することなく本線たる新川へ直接排水するものであるが、水場川が通常備えるべき安全性を論ずるにあたり、水場川河道自体による排水能力と同次元において検討、評価されるべきものである。
なぜなら、河川は本来、当該流域における出水を河道内に集め、これを安全に下流へ流下させ、流域外へ排水して、溢水、湛水等の出水による災害を流域住民に与えないという役割を果たさなければならず、河川改修計画に当たっては、河川の右機能の観点も踏まえて計画を立案すべきものである。そして、水場川のような内水河川においては、内水河川が降雨を円滑に処理する能力を有するときは、降雨による出水は逐次河道の中に収められて内水の湛水は生じないという関係にあり、かつ、河川管理者はその内水河川の排水能力の設定を通じて内水管理が十分可能であることから、河川が右機能を果たすためには、内水河川の河道を流下する外水のみならず、流域内の排水を含めた、いわば内・外水一体を対象とした管理が河川管理者の当然の義務となってくる。
一方、内水区域での雨水による湛水への対策は、内水河川へ集中した上で本川へ排除する方法だけでなく、直接ポンプ排水によって本川へ排除する方法もあり、この二つの方法は相互補完し合うもので、両者を組み合わせることにより、内水区域の出水を排水し、流域の水害を防止することになる。右目的からは、機能的に両者を合算して評価すべきであり、想定される出水量やこれにより導き出される排水能力も共通のものとして検討されなければならない。名古屋市の雨水整備計画においても、対象降雨とこれによる水場川河口ポンプ排水量及びこれによって規定される水場川河道を経由しての排水が、当然の前提として一体的に評価されているのである。
なお、河川と下水道の区別は必ずしも本質的なものでなく、下水道も河川の最も基本的かつ重要な機能の一つである排水路の役割を担っているから、内水排水対策が下水道事業として施行されていても、特に区別して論ずる必要はない。
(3) 水場川流域の出水対策として必要な排水ポンプ量
水場川全体計画調査報告書(愛知県が昭和五〇年度に三井コンサルタント株式会社に委嘱して作成した報告書)は、水場川の流域調査をした上、水害防止のための将来計画、暫定計画としての河道改修計画・排水ポンプ容量を検討するとともに、緊急対策としてのポンプ容量についても検討しているが、雨水整備計画の平田排水区を出水時の水場川の排水対象流域とした上、将来計画(確率三〇年、時間雨量約六四ミリメートルに対応する流量を対象)の河口排水ポンプ容量について、毎秒五〇立方メートルであることが適当であるとしている。
そして、前記のとおり、名古屋市の雨水整備計画が、時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)の降雨に対応するものとして、総体排水能力(既設ポンプと合算した能力)として毎秒五〇立方メートルを想定し、同ポンプの工事に着手していることは、水場川流域での洪水排除に同能力の排水施設が不可欠であることを示しているし、この間いわゆる内水排除施設や流域環境に大きな変化のなかったことに照らせば、本件水害当時の水場川においてもまた、右調査報告書記載の総体五〇トンポンプが必要であったことを指し示すものである。
(被控訴人らの主張)
原判決は破棄取消を免れないとする控訴人らの主張の根拠は、以下のとおり、いずれも独自の見解か、あるいは事実誤認に基づく誤った見解によるもので、原判決に対する単なる非難にすぎず、原判決の結論には何ら影響を与えるものではない。
被控訴人らは、原審において水場川が通常有すべき安全性を有しており、かつ、その改修計画及びその実施状況は全体として極めて合理的であることを主張してきたが、原判決はこれらの点を正しく認定したものであって、その結論は維持されるべきものである。
一 国家賠償法の基本理念等について
控訴人らは、原判決が国家賠償法の解釈に当たり、「損害の公平な分担」の法理を疎かにし、かつ、大東水害最高裁判決及び多摩川水害最高裁判決の判示する「河川管理に関する行き過ぎた諸制約論と過渡的安全性論」に幻惑され、国家賠償法二条一項の解釈適用を誤った旨主張するが、控訴人らの右主張は、以下に述べるとおり失当である。
1 損害の公平な分担について
控訴人らは、国家賠償法は、憲法一七条等の理念にそった解釈が行われなければならず、「損害の公平な分担」の理念が機能すべきであると主張する。
憲法一七条の規定が国家賠償法の基礎をなし、被害者救済の側面を有していることは控訴人ら主張のとおりであるが、その反面、同条が私人間における不法行為に基づく損害賠償以上のものを請求する権利を当然に与えようとするものでないことも明らかである。
国家賠償法二条一項は、公の営造物に係る国又は公共団体の損害賠償の帰責事由として、その設置管理の瑕疵を挙げている。したがって、公の営造物と何らかの関係がある損害を被った者があったとしても、その設置管理に瑕疵が存在しない以上、右被害者が国又は公共団体に対して損害の賠償を求め得ないことは、当然である。
控訴人らの主張は、救済の必要を過度に強調する余り、「損害の公平な分担」と称して、公の営造物に係る設置管理の瑕疵の有無を問わず、国又は公共団体の賠償責任が肯定されるべきであるとするものであるから、右主張が、損害賠償制度の本質を忘れ、実定法規を無視するものとして不当であることは、多言を要せずして明らかである。
なお、控訴人らの挙げる憲法一四条、二五条は、国家賠償制度とは異なる分野の規定であり、全く根拠とはなり得ないものである。
2 河川管理行政の責任の特質について
控訴人らは、河川管理行政について、その特殊性に目を覆って、全く独自の理論を主張している。
しかし、河川管理行政には以下のとおりの特殊性が存するのであって、河川管理の瑕疵の判断に当たって、右特殊性に着眼すべきことは当然である。
すなわち、わが国は世界有数の多雨地帯に属し、台風や梅雨時には短時間に多量の降雨がもたらされるという気象条件にある上、河川は一般に急勾配で流路が短く、一たび豪雨があると、短時間に流出して洪水を起こしやすい状況にある。よって、わが国の河川は、流域面積に比し、洪水のピーク流量(洪水時に河川に流出する洪水流量の最大値)が大きく、急激に増水するという特徴を有している。そのため、古来から今日に至るまで無数の水害が発生しており、また、わが国の耕地の多くは、繰り返される洪水氾濫によって形成された沃地や、容易に水の便が得られる場所(反面、洪水の危険もある。)が選ばれて成立してきたのであって、人もそのような場所に集まって居住してきたという歴史がある。そして、右のような歴史的背景から、わが国の国民の経済活動の重要部分が氾濫区域で営まれ、ここに人口の約五〇パーセント、資産の約七〇パーセントが集中しているのである。そのため、古くから、治水事業には多大な努力が注がれてきたが、技術的、財政的、時間的等の諸制約から、いまだ改修途上にある。
右のとおり、わが国は諸外国に比し洪水が多く、多大な努力にもかかわらず、洪水による被害を完全になくすることは技術的等の諸制約から不可能といっても過言ではない。また、道路等の人工公物のような通行禁止等の簡易な危険回避のための手段もないのである。
3 損害救済上問題となる「管理」について
控訴人らは、行政機関の管理に関し、積極的に行政機関に対して災害の防止を求める請求(控訴人らは「差止請求」と称している。)の場面と対比して、損害賠償責任における管理を問題にしようとしている。
しかし、そもそも控訴人らが比較の対象としている行政機関に対する義務付け訴訟は原則として認められていないのであり、比較の相手としている対象自体、訴訟として適法とされていないものであるから、控訴人らが右対比によって行っている主張は、全く意味のないものである。
4 水害訴訟に対する二つの最高裁判決について
控訴人らが原審で主張した大東水害最高裁判決に対する批判が失当であることは原審で述べたとおり(原判決事実第二の三1(五)(2))であるが、控訴人らのその余の批判も以下のとおり失当である。
(一) 「工事実施基本計画を重視することの誤り」と題する控訴人らの主張について
控訴人らの主張するところは、以下に述べるとおり、独自の見解にすぎず、失当である。
すなわち、右二つの最高裁判決が、工事実施基本計画を含む河川改修計画の適否も司法審査の対象となることを肯認したものであることはいうまでもないところであり、工事実施基本計画その他河川管理者の策定した河川改修に係る諸計画を絶対的な善と位置付け、右改修計画に準拠して河川の改修、整備を行っている限り、河川管理の瑕疵は否定され、河川管理者は免責される、との見解を採用したものではないのであって、控訴人らの主張は、右各最高裁判決の趣旨を正解せず、いたずらにこれを非難攻撃するものであって、明らかに失当である。
さらに、控訴人らは、右二つの最高裁判決が河道整備を重視する河川行政の姿勢と在り方を免責するもので誤りがあるとし、その論拠として、本件水害が発生した昭和五一年以降に答申されたものではあるが、河川審議会の「総合的な治水対策の推進方策についての中間答申」と「超過洪水対策及びその推進方策について」という二つの答申を引用して、建設省自身も工事実施基本計画の誤りを自認してその修正を行ってきているとするが、控訴人らの右主張もまた、以下に述べるとおり、各答申の趣旨を曲解した独自の見解にすぎず、明らかに失当である。
すなわち、河川審議会の「総合的な治水対策の推進方策についての中間答申」(昭和五二年六月)が提唱する総合治水対策とは、近年の都市及び都市周辺地域の開発の進行に伴う人工の集中、洪水時の河川への流出量の増大等により、治水安全度の低下の著しい特定の都市河川について、流域の持つ保水・遊水機能の確保及び災害の発生のおそれがある地域での土地利用の誘導等の措置と併せて河川改修事業を重点的に実施することにより、流域の変貌と調和のとれた治水施設の整備を図り、もって国土の保全と民生の安定に資することを目的とするものであって、決して従来の河川改修の在り方が誤っていたとするものではなく、むしろこれを強化・補完するものである。なお、控訴人らは、新川が昭和五五年九月前記中間答申の具体化として建設省が発足させた総合治水対策特定河川事業の対象河川として指定されたことは、河道のみを重視してきた改修計画の誤りを河川管理者が自認したものと評価すべきである旨主張するが、総合治水対策特定河川事業は従来の河川改修の在り方が誤っていたとするものではなく、むしろこれを強化、補充するものであるから、控訴人らの右主張は、同事業の目的を誤解するものというほかはない。
また同じく河川審議会の答申である「超過洪水対策及びその推進方策について」(昭和六二年三月)は、東京、大阪、名古屋等の大都市地域を洪水から防御している大河川の堤防が破壊されたとすれば、当該地域に壊滅的な被害が発生し、ひいては我が国全体の経済社会活動に致命的な影響を与えることが懸念されることから、超過洪水等に対して破堤による壊滅的な被害を回避するため、その主要な施策として、当該大河川の特定の一連区間において幅の広い高規格堤防の整備を進めるべきであるとして、大都市地域における治水対策の強化を提唱する一方、通常の改修方式によらず、地域の選択により、土地の有効利用を図りつつ住宅等を洪水から防御するための水防災対策特定地域の設定を行うことを検討するよう答申しているもので、この答申が提唱している高規格堤防の整備は、計画高水流量以下の洪水に対しては、従来どおり安全に河道内に流下させることを前提にしつつ、幅の広い堤防を整備することにより、超過洪水によって堤防を溢水することはあっても破堤には至らず、壊滅的な被害を回避するというような施策であり、従来の河川改修の姿勢を何ら変更するものではない。
これらの答申は、控訴人らの言うところの「河道整備重視の伝統的手法を墨守してきた河川行政の姿勢と在り方」に抜本的な変更を加えるものではなく、都市の治水安全度を高めて都市の発展を促すものであって、何ら従来の態度と矛盾抵触するものではない。なお、前述した答申等における考え方は、河川工学上の見地から理想的な治水対策を追求しているものであって、これら答申等において取り上げられた諸施策の実施が実定法上何人の権限に属するものであるかとの点については重きを置いていないものである(換言すれば、これらの諸施策が河川管理者の権限のみによって実施できるものであることを前提とするものではない)から、水害についての河川管理の瑕疵の有無を論じるに当たり、前記答申等を引用することは、明らかに失当である。
さらに、控訴人らの引用する資源調査会の科学技術庁長官に対する報告は、これまで資源として等閑視されてきた都市域の雨水を都市における重要な環境要素として認識し、総合的な視点に立った適正な雨水の流出・貯留・浸透・利用システムを構築するために必要な諸施策についての調査結果を報告したものであって、河川管理のあるべき姿に関するものではなく、いわんや現行法のもとにおける河川管理の瑕疵の有無についての判断基準に関するものではない。
(二) 「災害に対する『予測』の捉え方の誤り」と題する控訴人らの主張について
控訴人らは、右二つの最高裁判決は、河川の場合における「予測可能性」を、道路・公園施設・建物付属設備などといった他の工作物の場合における「予測可能性」とは区別して扱おうとするもので、従来の判例・通説を理由なく変更するものであるとして、非難している。
しかしながら、河川は本来自然発生的な公共用物で自然を対象としたものであって、管理者による公用開始のための特別の行為を要することなく自然の状態において公共の用に供される物であるから、通常は当初から人工的に安全性を備えた物として設置される道路その他の営造物とは性質を異にしている。したがって、右二つの最高裁判決もこの点を考慮したからこそ、河川の通常備えるべき安全性は、「改修、整備の段階に対応する安全性をもって足りるものとせざるを得ない」と判断したものである。
控訴人らは主張は、結局のところ独自の見解に基づいていたずらに前記各最高裁判決を論難するものにすぎず、到底採用されるべきものではない。
(三) 「道路と河川の差異を強調することの誤り」と題する控訴人らの主張について
河川と道路とは、その性質に大きな差異があり、その管理の瑕疵の有無についての判断基準もおのずから異なったものとならざるを得ないことは、大東水害最高裁判決や多摩川水害最高裁判決等の数次の裁判例によって確立された法理論となっているところである。
控訴人らは、行為規範と裁判規範とは別個の問題であるとか、違法性の概念は相対的なものであるなどと主張するが、控訴人らの右主張は、河川と道路についての管理の瑕疵の有無に係る判断基準には差異があるとする前記判例理論の当否とは直接関係がないものである。
(四) 「設置・管理の『瑕疵』に関する立証責任の分配の誤り」と題する控訴人らの主張について
(1) 立証責任分配の誤りについて
公の営造物の設置管理の「瑕疵」とは「通常備えるべき安全性に欠けること」であるが、大東水害最高裁判決は、これを河川について、「同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていないこと」と解したのであるから、この点は、原告側の立証責任に属するものというべきである。
右判決にいう「過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情」は、安全性の欠如の有無を裏付ける間接事実に準ずる事実にすぎないから、立証責任の問題ではない。
そして、右瑕疵の判定については、既に最高裁昭和五三年七月四日判決(民集三二巻五号八〇九頁)が当該営造物の構造、用法、場所的環境、利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきことを判示しているのであるから、大東水害最高裁判決が原告側の立証の負担を重くしたわけではない。
また、訴訟の実務においては、当該河川が河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を欠くことの立証に原告側が成功した場合には、当該河川の安全性は、同種・同規模の河川と対比して劣るものではないことの主張・立証が、被告側に要求される等の訴訟指揮が裁判所によってなされるものと思われるため、大東水害最高裁判決によったとしても、実務的には、河川管理の特質あるいは諸制約の存在、河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性の欠如に関する主張・立証が、原告側に一方的に課せられる負担となることはないといい得る。
(2) 「瑕疵」についての判断基準の不整合について
水害訴訟において原告側が立証責任を負担する事実は、前述したように、当該河川が、同種・同規模の河川の管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていないことである。
そして、大東水害最高裁判決が挙げているその他の事実は、安全性の欠如の有無を裏付ける間接事実又はこれに準ずる事実にすぎないのであるから、一方の当事者がこれらの事実の有無を主張し、相手方当事者がこれを争い、右事実の存否が重要な争点となっている場合は、裁判所は通常右争点についての判断を示しているが、これら間接事実等の有無について、いずれの当事者からも格別の主張がなされていない場合には、裁判所は、そのような事実についてまで逐一判断を示す必要がないことは、いうまでもないところである。
したがって、多数の水害訴訟判決において、大東水害最高裁判決が挙げている間接事実等の有無についての判断が示されていないことは、何ら異とするに足りないところである。
(五) 「原判決の示す瑕疵判断基準の誤り」と題する控訴人らの主張について
大東水害最高裁判決は、河川改修計画の合理性の有無を、「右の見地から見て」(すなわち河川の管理についての瑕疵の有無に係る基準に則って)、判断すべき旨判示しているものであり、原判決は、河川管理の一般水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性の有無という見地から、まず河川管理に関する国の行政目標の合理性を検討した上で、これを肯定し(原判決理由八3(一))、ついで水場川改修計画における不合理性として控訴人らが指摘した点について検討を加えた上で、控訴人らの主張は全て理由がないとして、これを退けたものである(原判決理由八3(二))。
したがって、原判決には理由不備の違法もなければ、大東水害最高裁判決の趣旨に反する点もなく、控訴人らの主張は全て失当である。
二 「本件豪雨について」における事実誤認について
1 控訴人らは、本件被害地域においては、九月九日の時点で既に床上浸水の被害が発生していたのであるから、この時点における降雨が先ず問題とされなければならないところ、九月八日午後二時から九日正午までの雨量は、日雨量二〇九ミリメートル、時間最大雨量三〇ミリメートルにすぎないから、原判決の指摘強調するような異常性はないと主張している。
しかしながら、河川管理者は、河川に集まってきた水を、安全に下流に流下させるよう努めるものであるから、本件においては、水場川が溢水し、かつ、その溢水によって右被害を惹起した時点までの降雨の異常性が検討されるべきなのである。
控訴人らは、この点を全く無視し、単に床上浸水の被害が発生した時点における降雨量を問題にするもので、全く誤っている。なぜならば、内水湛水が発生するか否か、発生するとしてその量はどの程度となるかについては、内水排除施設の有無とその規模・能力、調節池等の内水湛水防止措置の有無とその規模等によって大きく左右され、それは全て内水を管理するものの責任に帰し、河川管理者がそのことについて責任を問われるべきものではないからである。
そして、<証拠略>によれば、水場川からの溢水は、5ブロックにおいて九月九日の午後一〇時三〇分頃から始まったことが窺われ、この時点における降雨量について異常性の有無が検討されるべきであるから、原判決がこの時点までの降雨の異常性について認定判断したことに全く誤りはないのである。
2 控訴人らは、「第一波の降雨」は、途中一旦九日正午に降り止んでいるので、その時点までの降雨を「第一次降雨」とすると、水場川は第一次降雨によって既に溢水しているから、この「第一次降雨」を考察の対象とすべきであるが、それは各種の資料の示す降雨量からみても十分予見し得る降雨量であると主張する。
しかしながら、水場川の溢水が、九月九日午前七時三〇分頃から始まったとする控訴人らの主張そのものが全く根拠を欠いているのであるから、控訴人らの右主張はそもそもその前提を欠いており、失当である。
3 以上のとおり、原判決が、九月八日午後二時過ぎの降り始めから九日一杯の雨量(現実には九日午後一一時までの雨量三四一・五ミリメートル)について、その生起確率八〇年ないし九〇年に一回という規模を問題とし、本件降雨を異常な豪雨と評価したことは、極めて正しい視点に立脚したものといわなければならず、かえって控訴人らの前記主張こそが前提を誤っており失当なのである。
三 「河道からの溢水の有無」における事実誤認について
1 溢水状況について
(一) 控訴人らは、溢水状況について原判決の認定には誤りがあるとし、水場川は九月九日午前七時三〇分頃の時点で最下流部において、河道内の外水が左岸堤防を乗り越えて溢水し、溢水は時間経過に連れ順次上流部に及んでいったと主張し、控訴人側証人の証言及び控訴人本人らの供述等により右事実は立証することができるとしている。
しかしながら、控訴人らが援用する右証言等は矛盾に満ちた説得力の乏しいものであって、到底信用することができず、原判決が右証言等につき「その内容や日付の証憶に曖昧な点があり、いずれも採用し難い」と判示したのは極めて正当である。
(二) なお、控訴人らの挙げる<証拠略>については、原判決別紙第16図の<2>の地点と<1>の地点で、それぞれ約一ないし二メートルの幅で、踝ぐらいまでの深さで水が流れていたと供述する一方で、当該水場川の堤防の左岸の道路はなだらかに低かったとも供述しており、そうであれば、一、二メートル幅で溢水するなどということは考えられないこと、<2>の地点から水場川が溢水し、田んぼに流れこんでいたのは記憶しているとしながらも、すぐ東側にある「林隆功」の家の浸水状況については記憶していないというのであるから、第三地点からの溢水の記憶も曖昧だといわなければならないこと、第五地点の溢水は同地点から三〇メートル離れた事務所の二階から見ているのであって、それ程離れた場所から果たして溢水の様子まで分かるのかどうか疑わしいこと、水場川の水が塚前橋を乗り越えるのを見たと言いながら、水場川左右岸の堤防は冠水していなかったと供述しているが、堤防より高い塚前橋が水没したのに堤防が冠水していないというのも不可解であることなどから、同証人の溢水についての証言は信憑性が乏しいというべきである。
これに対し、控訴人らが、冷静な注意深い観察者とはいえないとして、その供述の信用性を否定する<証拠略>は、これから排水機場のポンプの運転に従事する者として、水場川の状況について関心を持っていたと考えるのが自然であるし、交替時間に遅れても前任者が勤務を継続することになるのであるから、交替時間に遅れるとして焦る必要もなかったのであり、その供述は自然かつ合理的で信用性は高いというべきである。
また、控訴人らは、<証拠略>は実際の記憶に基づくものでなく、<証拠略>も「平水」より多少深かったとの曖昧な供述にすぎず、いずれも信用性がないと主張するが、<証拠略>は実際に目撃した旨を明確に供述しているのであるし、<証拠略>の言う「平水」も、水場川においてポンプを稼働していないときに通常見られる満潮程度に見合う水位を意味すると解され、曖昧であるとはいえないから、控訴人らの右主張は理由がないものである。
(三) また、控訴人らは、甲第九号証の報告書は十分信頼できると主張する。
しかしながら、<証拠略>は溢水の事実を目撃していないばかりか、九日の日は平常どおり授業を始めていること、同日午前一二時に校長である同証人の判断で集団下校を実施していることを併せ考えると、同日午前七時三〇分に溢水の事実がなかったからこそ、右のような措置を講ずることができたものと解することが相当であって、甲第九号証を排斥した原判決は正当であると言うべきである。
さらに、控訴人らは、河川管理者がパラペットを設置したことをもって溢水の事実は十分推知しうる旨主張している。
しかしながら、パラペットは控訴人らからの依頼に基づき民生安定上設置されたものであり、溢水があったから設置されたものではない。
2 再現計算書について
(一) 再現計算書の用いた計算手法は、控訴人らの主張するような一次元不等流解析ではなく、二次元不定流解析による氾濫シミュレーションであるから、控訴人らの主張は基本的に誤っているといわなければならない。
氾濫現象については、それまでにも様々な地域や流域において研究がなされてきたわけであるから、それらによって蓄積された知見や各種実験、実測によって得られたデータをもとに分類整理された係数やパラメータを、浸水の状況や流れの特徴に応じて適切に用いれば、十分信頼に足る結果を得ることができるのであり、この意味で再現計算書は十分な成果を上げているといえる。
控訴人らは、本件内水災害では、実測データが存在せず、実測値を用いた検討がされていないと指摘する。確かに、このような解析においては、実測データが大切ではある。しかしながら、本件当時、水場川では水位観測等は行われていなかったのであるから、いたずらに実測データのみを追い求めることは現実的でなく、利用し得る限りのデータを用いて水理現象を再現することこそが大切である。
なお、控訴人らは、むしろ計算者の意図に計算結果が合うようなパラメータ等の設定が可能であると主張するが、パラメータ等が計算結果に与える影響は極めて限られた範囲のものでしかないから、計算者の意図に計算結果が合うようにしようとしても、水理学的に妥当な範囲でパラメータ等の設定を行うことなどおよそ不可能なことであって、控訴人らの右主張こそ、何ら根拠のない恣意的なものというべきである。
(二) 再現計算書では計算結果と実測値との照合・検証が重要であることは、控訴人ら主張のとおりであるところ、前記のとおり、本件当時、水場川では水位観測等は行われていなかったため、実測データとの検証ができなかったものであり、控訴人らが言うように実測値との照合・検証という作業を軽視し、回避しているのではない。
控訴人らは、新川における水位計算結果と実測値の比較について、計算結果と実測値の乖離が異常に大きく、採用したモデル手法の誤りを強く示唆していると主張するが、新川における水位計算結果と実測値は十分に適合しており、信頼に値するものである。
また、控訴人らは、再現計算結果が、控訴人らが河道からの溢水を現認したとする地点で、九月九日午前中に溢水が生じないことになっているのは、予めこの地点に関する九月九日午前中の水位と流出量を与条件として流出モデルに与えた上で、逆にパラメータの数値を規定していく方法で再現計算が進められたためだと解するのが相当であると主張するが、パラメータ等は、今までに蓄積された各種データを基に合理的に設定されたものであり、予め設定された計算結果に合うようにパラメータ等の設定を行うことなど到底不可能なことなのであって、控訴人らの右主張は全く根拠のないものである。
(三) 控訴人らは、原判決の再現計算書の計算結果についての評価は誤りであると主張するが、以上述べたとおり、再現計算はそれ自体として合理性を備え、信頼に値するものであり、原判決も、再現計算それ自体としての合理性を否定するものでなく、その性質上多くの仮定が入ることを避けられないために、計算結果を無批判に受容することはできないとしながら、他の信用するに足りる証拠により認定できる事実と客観的に符合する限り、再現計算の合理性が客観的に担保されたものとして、再現結果を採用できると述べたものであり、共に計算書の性質上一般的に認められることを正当に述べたものであって、これを誤りとする控訴人らの主張は理由がない。
また、控訴人らは、原判決が九日午前中の溢水の有無について、被控訴人側の目撃証人の供述を信用して認定した事実を基礎に、再現計算の結果の信頼性を論じている点について、右供述の信用性の評価自体に再現計算の結果が影響している可能性があるので、このような議論の進め方は誤りであると主張するが、控訴人側の証人の供述が採用されなかったのは、単に右供述自体が矛盾に満ちた説得力の乏しいものであって信用するに足りるものではなかったからであり、控訴人らの右主張も全く理由がない。
さらに、控訴人らは、そもそも、再現計算の結果と原判決の溢水状況の事実認定とは符合しているとはいえず、むしろ、再現計算の結果を前提として、事実認定をしたものであると主張する。しかしながら、再現計算書は昭和五一年九月の災害時の水場川流域の溢水状況等を計算上忠実に再現しようとしたものであるが、その再現は絶対的なものではなく、モデル計算に伴う内在的限界ともいうべきものが存在するのである。だからこそ、原判決も計算結果を無批判に受容せず、他の信用するに足りる証拠により認定できる事実と客観的に符合する限りにおいて採用したのである。したがって、原判決の認定した事実と再現計算の結果に一部異なる点があることをとらえて、原判決の事実認定を批判することは失当である。
3 外水・内水の割合について
控訴人らは、(一)河道からの溢水、(二)河道に流入できないため上流域から本件被害地域に流れ込んできた水、(三)河道に流入できないで溜まってしまった本件被害地域への降水とが渾然一体となって本件被害を発生させたというべきである旨主張するが、右事実を認めるに足る証拠はない。
また、控訴人らが原判決の認定を非難する点はいずれも失当である。
四 「本件水害の原因」における事実誤認について
1 水場川における水流量等について
(一) 内水を考慮しないことについて
原判決が河川の改修計画にあっては、内水もまた河川管理者が流域外に排除する対象とすべきであると判示する点について、控訴人らの主張するところは、原判決を正解せず、その論理にも飛躍があるというべきである。
すなわち、もともと内水については、河川管理者にはその排除の権限はなく、道路、下水道の管理者あるいは個々の民地等の管理者が各々内水排除の責任を負うものであるところ、これらの管理者からどの程度の量の内水が河川へ排水されるかについて、河川管理者が河川の改修計画において考慮すべきことは当然であり、むしろ全く考慮に入れていない河川計画などあり得ないというべきである。原判決もこの理を述べたものであって、河川管理者が自ら雨水等の内水を集めて河川に排除すべき権限を有し、義務を負うことを述べたものではない。
控訴人らは、原判決が具体的な水量計算やこれに基づく河川改修の評価にあたって排除すべき内水の量を全く無視しているとか、マイターゲート・フラップゲートが閉まる事態は水場川が内水排水についての河川の機能を果たしていない状況を意味するなどと非難するが、その根拠は、内水について河川管理者が全面的に責任を負うべきものという誤った前提に立脚するものであって、あえて反論をなすまでもなく失当であることが明らかである。
仮に、原判決が、通常の降雨に際してという限定付きで河川管理者の内水に対する管理責任を肯定したものであるとすれば、原判決の右判断は明らかに誤りであって、到底是認し難い。
すなわち、河川管理者の権限が内水に及ばないことは、被控訴人らが原審において詳述したとおり(原判決事実第二の三4(三)、(四))であり、たとえ、通常の降雨に際してという限定付きであっても、河川管理者の内水に対する管理責任を肯認することは、全く法的根拠を欠くものと言うべきである。
河川管理者の内水に対する管理責任の有無が、通常の降雨であるか豪雨であるかによって決せられるとする法解釈は、内水湛水による被害の発生とその軽重は降雨量の多寡のみによって決まるものである、との事実を前提とするものと解される。しかしながら、内水湛水の量は降雨量のみによって左右されるものではなく、内水排除施設の有無とその規模・能力の如何により、さらに調節池等の内水湛水防止装置の有無とその規模等により左右されるものである。したがって、降雨量の多寡によって内水に対する河川管理者の管理責任の有無を決しようとする法解釈は、甚だ非論理的であって、到底是認し難いものである。
(二) 河口部出水量等の認定について
水場川のように河口において機械排水されているような河川の場合、河口における水位の影響を受けて水面勾配が変動することにより、途中の断面を通過する流量は大きく変動する。洪水が増水していく過程においては、上流部や流域からの流水を受けて中・上流部の水位が急激に上昇していくのに対し、下流部の水位がまだそれほど高くなっていないような場合には、一時的に機械排水の能力を超えるような流量の発生する断面が生じる可能性もあり、この場合、機械排水の能力を超えた部分の流水は当然新川には排水されないから、水場川の河道内に貯留されることになる。この結果、下流側の水位は、流下する流量が機械排水の能力にバランスするようになるまで続くことになる。このように、河道のある断面を流下する流量が、機械排水の能力を超えた場合でも、その時点における河道の貯水能力が、この超過流量によって河道に貯留されることとなる水量を上回れば、その洪水は安全に流下することになるわけである。
そして、再現計算書の再現計算の手法を用い、時間雨量五〇ミリメートルの計画対象降雨を対象として氾濫シミュレーションを実施したところ、その結果は別紙図1及び図2のとおりであり、水場川の中流部において一時的にポンプ排水能力を上回る毎秒一五・七立方メートルの流量が発生しているが、この分は河道の貯水能力によって河道内に吸収され、右計画対象降雨に対して溢水することなく河道内で処理されたこととなる。
したがって、原判決が、毎秒約一五立方メートル程度の洪水が水場川の河口に到達したとしても、右洪水は河口排水機の排水能力と河口部の貯水能力とによって、水場川の河道から溢水することなく新川に排水され得たと判示する点は正当である。
2 内水湛水について
控訴人らは、原判決が「本件のような豪雨に際しても、水場川が流域内に湛水被害を生じさせることなく内水を集めて流下させる機能を果たさなければならないとすることは、その流下能力からいっても到底無理であった」と判示したことに対して、浸水被害をもたらした湛水を排水能力毎秒五立方メートルの排水ポンプで排水するとすれば、一日で四三万二〇〇〇立方メートルの排水をすることが可能であり、この五トンポンプを既設の一〇トンポンプと合わせて稼働させれば、一日で5ブロックの内水湛水量全部を排水することができ、九月九日の内水被害(床上浸水)は発生していなかった旨主張するが、右主張は以下のとおり失当である。
すなわち、まず、控訴人らは排水能力毎秒五立方メートルの排水ポンプで一日に四三万二〇〇〇立方メートル排水できるとするが、これは堤内地湛水部の湛水を直接排水ポンプで河川へ排出したときの排水量を計算しているにすぎないのであって、水場川の河口部に五トンポンプをつけたとしても、右四三万二〇〇〇立方メートルの内水を水場川にとり込んだ上、新川に排水することは不可能である。けだし、水場川の水位が上昇したときには、内水の水場川への自然排水は不可能になるからである。
また、控訴人らは5ブロックの内水湛水量全体が約四一万立方メートルであるとすると、排水能力毎秒一〇立方メートルの排水ポンプを一日稼働させれば同ブロックの内水全部を排水することができたとするが、右主張は同ブロックの内水が全部水場川に排水されることを前提としている点において誤りがあるのみならず、隣接する上流域ブロックから5ブロックへ新たに流入する内水を全く考慮していない点において二重の誤りを犯すものである。
五 「水場川の管理上の瑕疵の有無について」における事実誤認等について
1 原判決の論理矛盾、理由不整合について
控訴人らは、原判決には行政目標の位置付けと評価に矛盾と混乱があると主張する。
しかしながら、原判決は、本件水害発生当時、マイターゲート・フラップゲートにより水場川へ内水が排除されなくなるという流域の自然的特性を正しく認識したものであって、内水が全部河道内へ流入しない以上、上流から河道内を流下する水量については、概ね一五立方メートルを超えることはないとし、右一〇トンポンプと河口附近の貯留能力で対処し得たとしたもので、上流から河道を流下する水量が一五立方メートルであるか否かはともかくとして、水場川が計画降雨に対処すべき通常の安全性を有していたことを正しく認定したものである。
一方、水場川が改修中の河川であるかどうかについて、原判決が未改修としたのは、内水が水場川に自然には流入し得ない本地域の特性に鑑み、将来の内水流入の増加と都市化の伸びを考慮すると、ポンプ能力が不足することとなることを正しく認識したのであって、河川管理者である愛知県知事が二〇トンポンプの増設計画を実施中であったのも、この理由によるものである。
すなわち、同じ降雨であっても、内水排除状況と都市化の進捗状況によって河川へ流入する水量は大きく変化するのであるから、原判決はこの状況を踏まえた上で、本件水害発生当時における水場川について、流域と内水排除施設の現状からみて、通常の安全性を備えていたものとする一方、将来における内水流入の増加と流域の都市化の伸びなどを視野に入れて総合的に考慮した場合には、改修中の河川であると述べたものであって、何ら矛盾はないものである。
むしろ、控訴人らがこの状況を無視したか見落とした議論を展開しているというべきである。
2 水場川改修計画における不合理性について
(一) 改修前の井堰等の効用と河道改修の影響について
控訴人らは、原判決が内水湛水の発生メカニズムについて誤った理解と認識に立つものと非難し、「井堰や複雑なループ状の河道が、豪雨時には降雨の下流部域への集中を緩和する機能を有していたと評価できる」と主張する。
しかしながら、水場川の河道改修により、従前は本流域の降雨のほとんどが流域の最下流域に池状に滞留し、新川の洪水が去るまで吐けなかった事態が改善されたものであって、むしろ下流部域の湛水被害を軽減させたことは明らかであり、河道改修が下流部域における洪水の危険性を高めたとの控訴人らの主張は全く失当である。
控訴人らの主張が、井堰やループ状の河道が、そのまま改修されずに存置されていたなら、言い換えれば、中・上流部域における排水の劣悪さが改善されないまま放置されていたなら、控訴人らの被害は発生しなかった、あるいは大幅に軽減されたはずであるというものであるとすれば、河道改修の意義についての無理解はともかく、自分らの居住する下流部域の防災しか考えない極めて利己的なものであると言わざるを得ないのである。
また、控訴人らは、下流部域の内水湛水が生ずるのは、下流部河道の流量増加によって下流部域の内水が水場川に流入することができなくなるからであると反論するが、河道の水位如何によって内水が河道へ流入できなくなるような地形そのものが、原判決のいう内水湛水を生じ易い地域ということの一因であり、控訴人らの右反論は、原判決の認定と同趣旨を述べたものにすぎないものである。
(二) 河道改修と河口排水機の設置の先後について
控訴人らは、原判決が新川の河道整備の前に、水場川の河口排水機場に河道見合のポンプを設置することが不適当であったかのような認定をしていると主張した上、水場川の河道改修と一〇トンポンプの設置は、本件被害地域の都市化を進行させ、被害発生の誘因となったにすぎず、本件被害地域の治水安全度の向上には何らの貢献もしていないものと評価しなければならない、水場川の河道改修には、河道見合のポンプ設置が不可欠のものだったのであると主張する。
控訴人らの言う「河道見合のポンプ」の意味は必ずしも明確ではないが、一〇トンポンプでは不足であるとの意味であるとすれば、本件水害発生当時の水場川は一〇トンポンプの設置により計画対象降雨の規模の降雨に対処し得たものであり、また、二〇トンポンプの増設に際しては、新川の治水安全度を低下させることのないよう考慮すべきことも、水系全体の安全状況等を絶えず念頭において実施すべきである以上当然であるから、原判決の右認定に何ら誤りはないことは明白である。
また、控訴人らは、二〇トンポンプの増設により新川の治水安全度を低下させることのないよう考慮した上で、これを設置したことにつき、原判決が不合理を認めなかったことについて、新川は庄内川の放水路(人工公物)であって、安全性を備えた「人工の川」として設置されたはずであるから、水場川河口部への排水機設置についてこのように述べること自体大きな矛盾を孕むものと主張している。
しかしながら、河川につき自然河川と人工公物に区別することは格別の意味をなさない。そもそも、新川は、江戸時代、二〇〇年も前に人力だけで開削された、現況より小規模な河川であったのであって、そのような河川が、今日的見地からなお安全性を備えているはずもなく、昭和の時代になり大改修が加えられた河川である。人工公物であるか否かはともかく、新川が安全性を備えた川として設置されているのであれば、その後に治水事業を加える必要はもともと存在しないのであって、ことさら人工公物と自然公物とを区別することによって、河川の持つ特殊性に差異があるかのような議論は、自然的原因により災害をもたらす危険性を内包している河川についての無理解を端的に示すものである。
さらに、控訴人らは、水場川と新川との合流点での排水機設置が河川の治水安全度を低下させるとの理由からできないというのが事実だとすれば、その段階では、水場川の治水事業として、ポンプ設置を必要とする河道改修を行うべきではなく、水場川改修前に同河口部に河道に見合った排水機を設置できる程度に、新川の改修工事を先行させるべきであるとして、新川の河道改修に先行させて水場川の河道改修を行う特段の必要性、合理性は全くないと主張する。
しかしながら、昭和五四年に完成した二〇トンポンプは、河川管理者愛知県知事が水場川の治水安全度を向上させるため、水系全体の安全度を考慮しながら段階的に進めてきた改修計画の一環であり、その計画には何ら不合理な点は存在しないものであるし、本件水害発生当時は一〇トンポンプで計画対象降雨の規模の降雨に対処し得たのであって、控訴人らの右主張は、河川管理者が元来新川の水位如何で自然排水さえままならない水場川の治水安全度を着実に高めてきた事実を無視しているものである。
なお、付言するに、河川において原則として下流から改修を行うということは、直ちに下流改修完了前には上流に一切手をつけないということを意味するものではない。河川管理者は、河川の改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮しつつ、順を追って改修していくのである。現に二〇トンポンプ増設に当たっては、水系を一貫した計画の下に同時に実施してきた新川改修の進捗に歩調を合わせており、水場川の改修計画の合理性についての原審の判断は、正しく正当である。控訴人らの主張は、あたかも水場川の改修が全くなされていなければ、本件災害は発生しなかったと述べるに等しいものであって失当である。
3 早期の改修事業を施行すべき特段の事情の有無について
(一) 河道改修後の排水ポンプの能力について
控訴人らは、原判決が「水場川は河道改修後も、前記計画対象降雨の規模の降雨に対しては一〇トンポンプで対処し得たものと認められ、右市街化を考慮しても、右計画対象降雨の規模から生じる洪水に対し直ちに改修を要すべき危険な状況にあったとは認め難い」と判示したことに対し、一〇トンポンプ設置後の昭和四九年に一度水害が発生したとして、水場川が改修すべき危険な状況にあったと主張する。
しかしながら、控訴人らが昭和四九年に発生したとする浸水被害は内水被害であって、水場川の溢水によるものではない。控訴人高田堯本人は、原審において、昭和四九年に水場川で溢水があった旨供述するが、乙第三〇号証に照らして信用に価しないものである。
(二) 平田終末処理場の建設について
(1) 「庄内川北部流域雨水整備計画」の実施について
控訴人らの「庄内川雨水整備計画」の内容についての主張には、以下に述べるとおり根本的な誤りがある。
まず、控訴人らは、平田終末処理場内ポンプ場(以下「平田ポンプ」という。)の排水対象地域(以下「平田排水区」という。)がおおよそ水場川流域と重なるとするが、平田排水区(二・二三平方キロメートル)は、その一部が水場川流域(一一・八平方キロメートル)と重なるにすぎず、その東側ないし東南側の一部は水場川の流域に含まれてはいない。
次に、控訴人らは、あたかも平田ポンプの排水能力毎秒二〇立方メートルと水場川の既設の二つのポンプの排水能力毎秒三〇立方メートルを合わせて、水場川流域における対象降雨時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)に対応するものであるかのように述べているが、河川と内水排水施設である下水道とを混同する誤りを犯している。
すなわち、水場川の流域は、平田排水区の一部を含むものの、流域全体から見れば、平田排水区以外の区域がほとんどであり、水場川の既設の三〇トンポンプは、流域全体の五年確率の降雨に対応すべく、流域全体からの排水の受け入れを対象とするものである(流域内の平田排水区の一部の内水を、名古屋市が下水道等の内水排水施設の整備によって水場川に排水することとなれば、河川管理者としては、水場川の現況能力に見合う場合、これを受け入れる内容のものとなっている。)。
これに対し、平田ポンプは、内水を集め、河川へ排水する内水排水施設であるから、流域から流入してきた雨水等を安全かつ迅速に流下させることを目的とする河川とは明確に区別されなければならない。
その上、水場川の改修計画(昭和五二年策定)は、平田ポンプの計画(昭和五九年下水道法の事業認可)の策定前に策定されたものであり、流域内の平田排水区の排水を新川へ行うことを前提とする計画ではない。したがって、平田ポンプが完成し、平田排水区の新川への排水が可能となれば、その限りで将来において右排水を水場川に排水する必要はなくなるから、現在水場川の計画に含まれている右排水の一部を計画から除外するという関係になるのであって、平田ポンプの排水容量と水場川の排水容量を合算して評価するという関係にはないのである。
(2) 「下水道排水施設と水場川河口の排水の関連性」について
控訴人らは、流域の内水の排水を含めた、いわば内・外水一体を対象とした管理が河川管理者の当然の義務であると主張するが、河川管理者は内水については責任を負わないと解すべきである。
なお、控訴人らは、河川管理者が内水についても責任があるとする前提として、河川管理者はその内水河川の排水能力の設定を通じて内水管理が十分可能であると主張するが、ポンプによる排水能力をいくら高めたところで排水能力に見合った排水が可能となるということはできない。なぜなら、排水能力に見合った排水を可能とするためには、流域において排水路、下水道等の内水排水施設が整備されなければならないところ、この内水排水施設を整備するのは下水道管理者等の内水管理者の責務なのである。
仮に控訴人らが主張するように内水についても河川管理者の守備範囲であるとするならば、流域の内水を河川に集めるための排水路などの施設の整備も河川管理者の責務ということになろうが、このようなことを河川法が予定していないことはもちろん、下水道管理者等との法律の定めた責任分担を破壊してしまうもので到底是認することはできない。
次に、控訴人らは、内水区域での雨水による湛水対策は、内水河川を通じての本川への排水と直接ポンプ排水による本川への排水の二つの方法があるとし、二つの方法は相互補完し合うものであると主張するが、控訴人らの右主張は、河川と内水排水施設を混同するものといわざるを得ない。すなわち、内水を本川に直接排水するか、支川(控訴人らの言う「内水河川」)に排水するかは、内水管理者の責任において実施されるものであるのに対し、内水を支川が受け入れた後にこれを安全に流下させるのは河川管理者の責務であって、内水排水のための下水道施設と支川とは明確に区別されるべきものである。
また、控訴人らは、水害防止の目的からは、右二つの方法を合算して評価すべきであり、想定される出水量やこれにより導き出される排水能力も共通のものとして検討されなければならないと主張するが、これも内水排水施設と河川を同一視することを前提とするものであり到底是認することはできない。
さらに、控訴人らは、河川と下水道の区別は必ずしも本質的なものではないとして、内水排水対策が下水道事業として施行されていても、特に区別して論ずる必要はないとするが、河川と下水道は目的・機能において明確に区別すべきであり、だからこそ、それぞれを所管する法律も下水道法と河川法と異なり、管理者も別に定められているのである。
(3) 「水場川流域の出水対策として必要な排水ポンプ容量」について
控訴人らの引用する水場川全体計画調査報告書では、水場川流域に平田排水区を含んで記載されているが、水場川の改修計画を策定した段階で、平田排水区の東側ないし東南側の一部は水場川の流域から除外され、これに含まれていない。
ところで、控訴人らは、名古屋市の雨水整備計画が時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)の降雨に対応するものとして、総体排水能力(既設ポンプと合算した能力)として毎秒五〇立方メートルを想定していると主張するところ、右主張が、対象降雨時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)に対応するためには、平田ポンプの二〇トンポンプと既設の水場川での三〇トンポンプを合算した五〇立方メートルの排水能力が必要であるという意味ならば、誤りである。なぜなら前記のとおり、水場川の改修計画は流域内の平田排水区からの排水の受入れも当然に対象としており、水場川のポンプ排水容量と内水排水施設である平田ポンプの排水容量とを合算するという関係にはないからである。
また、控訴人ら主張の総体排水能力の意味が、水場川流域の内水に対応するための必要な排水容量として、水場川全体計画調査報告書記載の水場川の将来計画である五〇トンポンプを想定し、平田ポンプ(二〇トンポンプ)は水場川の既設の三〇トンポンプを差し引いたものであると考えているとするならば、これも誤りである。なぜなら、水場川の既設の三〇トンポンプが流域での五年確率の降雨に対応するものとして計画されたものであるのに対して、五〇トンポンプは流域での三〇年確率の降雨に対応するものとして計画されたものであって、五〇トンポンプから既設の三〇トンポンプを差し引いた二〇トンとは、三〇年確率の降雨に対応するために増設の必要のあるポンプ容量を示すにとどまり、五年確率の降雨に対応するものとして設定された平田ポンプの必要排水容量を示す根拠となるものではないからである。
さらに、控訴人らは、名古屋市による、右五〇トンポンプ(総体)の工事着手等の事実が、水場川流域での洪水排除に同能力の排水施設が不可欠であることを示しているし、流域等に大きな変化のないことに照らせば、本件水害当時の水場川においてもまた、調査報告書記載の総体五〇トンポンプが必要であったことを指し示すものであると主張する。しかし、名古屋市の雨水整備計画は、水場川の改修計画とは別の目的・機能を有する下水道管理者としての判断による計画であり、両者を合算すること自体が無意味であるから、これを前提とする控訴人らの右主張は何ら理由がない。また、調査報告書記載の五〇トンポンプは、水場川の三〇年確率による将来計画を策定するための参考となったもので、水場川の将来において必要となる容量を示しているにとどまり、本件水害当時に必要なポンプ容量を示しているものでないことは明らかであるから、この点からも控訴人らの主張は何ら理由のないものである。
第三証拠関係
<証拠略>
第四当裁判所の判断
一 本件の当事者、庄内川水系及び一級河川水場川の概要並びに水場川改修の経緯等に関する当裁判所の認定判断は、原判決理由一ないし四(原判決D―1丁表二行目冒頭から同D―10丁裏一二行目末尾まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。当審における新たな証拠調べの結果によっても右認定を左右し得ない。
二 水場川流域の自然的特性等
水場川の概要等については、原判決理由三に判示のとおりであって、要するに、水場川流域は、新川、五条川及び合瀬川の各自然堤防によって囲まれる、北方に口を開けた袋状の低地で、しかも北から南へ緩やかな傾斜をなしているため、豪雨の際には、袋の入口である北方から水場川流域に流れ込んだ大量の雨水及び水場川上流部域に降った大量の雨水のうち、水場川や地区内水路に収容しきれない分は、その地形勾配に従い、河道外を水場川下流部域に移動することとなるが、水場川下流部域及び中流部域の南半分は、標高が堤防高よりも低い、いわゆる内水区域となっていて、水場川増水時には、地形上、流域に降った雨水を水場川に自然排水することができないという特徴がある。すなわち、後者の点について更に言えば、内水区域内に張りめぐらされた地区内水路と水場川との合流点にある水門(潅漑用水の排出口)には、用水管理者がマイターゲート・フラップゲートを設置しているが、これらのゲートは、水場川増水時に水場川の水が地区内水路に逆流するのを防ぐためのもので、増水時の排水機能はなく、この結果として、水場川の水位が上昇すると、水場川地区内水路から水場川への内水の排水が不可能となる。このため、水場川流域は、従前から豪雨の際には、下流部域に内水湛水を生じ易いという自然的特性を有していた。また、水場川流域は昭和三〇年代までは一面の田畑であったが、工業地域・住居地域等の指定を受けるなどして昭和四〇年ころから市街化が進行し、特に下流部域の平田地区では市街化が著しく、ために、出水及び湛水の傾向は強まっていたという事情もあったものと考えられる。
ところで、<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すると、水場川中・下流部域の内水区域の湛水を排除するためには、まずは内水管理者において内水をポンプ等により新川又は水場川に排水するための強制排水施設を設置することが考えられるが(上記の地形的特徴からすると、水場川に排水する強制排水施設を作るよりは、新川に排水する強制排水施設を作ることの方がより合理的であると考えられる。)、本件水害当時、水場川流域には内水管理者である名古屋市による強制排水施設の設置はなく、名古屋市が、公共下水道事業の一環として、庄内川北部流域の雨水整備計画につき事業認可を受けたのは昭和五九年、右事業の一環として、水場川流域の一部を含む地域につき、地区内水路から内水を新川に強制排水する機能を有する平田終末処理場内ポンプ場(二〇トンポンプ)の建設に着手したのは、平成四年になってからのことであったことが認められる。
三 水場川の改修計画と達成度
1 水場川の改修の経緯は原判決理由四に判示のとおりであり、この結果、本件水害当時の水場川は、上流部の河道が毎秒約一〇立方メートル、中流部の河道が毎秒約一五立方メートル、下流部の河道が毎秒約二五ないし三〇立方メートルの洪水の流下能力を備えていた上、水場川河口には、新川への自然排水が不可能となった場合に水場川の水を新川へ強制排水するための排水機(一〇トンポンプ)が設置されていた。
そこで、以下、洪水時における水場川の河道等の能力、すなわち水場川がどれほどの洪水に耐え得るものであったかについて、検討する。
2 洪水時における水流量
<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すると、被告国は、中小河川の改修事業においては、時間雨量五〇ミリメートルの降雨(生起確率五年ないし一〇年に一回、以下これを「計画対象降雨」ともいう。)に対処し得るようにすることを当面の行政目標としていることが認められる。
ところで、右各証拠においては、右時間雨量五〇ミリメートルの降雨の際、水場川には、上流部域の自然排水区域から、上流部の流下能力ほぼ一杯の毎秒約一〇立方メートルの洪水が流入し、中・下流部を流下することとなるが、その場合、内水位との水位差から内水区域の地区内水路に設けられた用水施設であるマイターゲート・フラップゲートが閉まり、この区域から水場川へ内水が流入することはないといえるから、毎秒約一〇立方メートルの洪水は、ほぼその量のまま下流部を流下して河口部に到達し、本件水害当時設置されていた一〇トンポンプにより排水されることになり、水場川からの溢水は生じないとされている。
なるほど、水場川上流部の河道の流下能力は毎秒約一〇立方メートルであるというのであるから、上流部を流下する水量が右流下能力を上回ることのないことは容易に推測し得るところではあり(ただし、右時間雨量五〇ミリメートルの降雨の際、自然排水区域から水場川に流入する水量が毎秒約一〇立方メートルを上回ることがないとする点については、計算の結果等が提出されていないため、これを確定することはできない。)、また、前記二に判示したとおり、水場川流域のうち内水区域に属する中流部域の一部及び下流部域の地区内水路にはほとんどマイターゲート・フラップゲートが設置されており、右各ゲートは内・外水の高低差によって開閉するものであるところ、右のとおり水場川上流部から毎秒約一〇立方メートルを超える水量が流下してくる場合には、通常、中・下流部の外水位も内水位を越え、内水が水場川に流入することは不可能となるが、外水位が内水位を上回る場合において、地区内水路から水場川にポンプ等によって内水を排除する施設が内水管理者である名古屋市によって設置されていなかったというのであるから、水場川の洪水時の水流量は、内水区域における内水の水場川に対する強制排水施設が存在しなかったという昭和五一年九月当時の状況を前提とする限りは、水場川河口に当時設置されていた一〇トンポンプの排水容量を上回ることはなかったと一応いうことができる。
しかしながら、他方、<1>原判決理由四5に判示するところによれば、河道の流下能力が毎秒約一五立方メートルに増加する中流部域にも、狭いながら一部自然排水区域が存在し、その部分からの雨水の流入(ただし、その区域が狭い上、その一部はむしろ地区内水路等により下流部域を経由して水場川へ流入することが窺われ、その水量は少量であることが推認される。)も予想されることと、<2>中・下流部でも、外水位よりも内水位が高くなって地区内水路から内水が流入する事態が全く生じないとは断言できないことも考慮すると、計画対象降雨(時間雨量五〇ミリメートルの降雨)の規模の降雨があった際に、中・下流部を流下する水量が、被控訴人ら主張の毎秒約一〇立方メートルを若干上回る可能性のあることは否定できず、その場合の水量を厳密に確定するだけの証拠はないが、上記認定事実によれば、多く見ても中流部の河道の流下能力である毎秒約一五立方メートルを超えることはないと見るのが相当である。
3 計画対象降雨の規模の降雨に対する水場川の河道能力
右2に判示のとおり、計画対象降雨(時間雨量五〇ミリメートルの降雨)の規模の降雨があった際に水場川の中・下流部を流下する水量は必ずしも明らかではないが毎秒約一五立方メートルを超えないものというべきところ、右2冒頭に掲記の各証拠及び弁論の全趣旨に照らすと、仮に毎秒約一五立方メートル程度の水量が流下して水場川河口部に到達したとしても、水場川下流部の河道は、流下能力にして毎秒約二五ないし三〇立方メートル程度に拡幅されていることは既にみたとおりであり、この河口部の貯水能力と河口排水機の一〇トンポンプの排水能力とによって、計画対象降雨によって生起される右の程度の流量であれば、水場川の河道から溢水することなく新川に排水され得たものということができ、以上の認定を覆すに足りる証拠はない。
四 本件豪雨の規模
1 本件豪雨の状況についての当裁判所の認定判断は、原判決理由五(原判決D―10丁裏一四行目冒頭から同D―11丁裏一二行目末尾まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。
右判示のとおり、本件豪雨のうち第一波の降雨の際の最大時間雨量は、九日午後九時から一〇時にかけての五〇・五ミリメートルであったが、九月八日午後二時から一〇日午前零時までの約一・五日間の累計雨量は三四一・五ミリメートル(生起確率八〇年ないし九〇年に一回)に達したものであるところ、前記三2に判示のとおり、被控訴人国が中小河川の改修事業において当面の行政目標としている計画対象降雨(時間雨量五〇ミリメートル)の生起確率は五年ないし一〇年に一回であること、また、原判決理由四7に判示のとおり、激特事業における対象降雨(時間雨量五〇ミリメートル、日雨量一五八ミリメートル)の生起確率は五年に一回であることに照らすと、本件豪雨のうち第一波の降雨は、単位時間当たりの雨量規模を表す時間雨量については計画対象降雨と同程度の規模であったといえるが、右約一・五日間の累計雨量については、その生起確率が計画対象降雨の生起確率を大きく上回り、激特事業における対象降雨の日雨量及びその生起確率と比較しても、これを大きく上回るもので、豪雨が長期間継続した点にその異常性が認められる。
2 なお、控訴人らは、本件豪雨の規模を考察するについて、右第一波の降雨は九日正午に一旦降り止んでおり、この時点までに水場川が溢水し、内水湛水位も上昇し、床上浸水の被害も生じているのであるから、右第一波の降雨全体ではなく、右第一波の降雨のうち九月九日正午までの降雨を第一次降雨とし、これを本件水害被害を発生させた連続的な降雨として考察の対象とすべきであり、この第一次降雨の規模は異常なものといえないと主張する。
しかしながら、<証拠略>のうち雨量に関する部分によれば、西部消防組合消防署の観測値において、九日午後零時から一時までの時間雨量は零と記録されてはいるが、その前後の降雨の状況をも総合すると、第一波の降雨は、九日正午に一旦降り止んだというよりは、むしろ全体として継続した降雨と評価するのが相当であるというべきである上、水場川の溢水や内水湛水の状況、特に溢水が生じた日時の点は後記五に認定するとおりであって、控訴人らの右主張は前提を誤るものといわざるを得ないから、いずれにせよ第一次降雨のみの規模を考察の対象とすべきとする控訴人らの主張は失当である。
五 河道からの溢水の有無とその程度
1 河道からの溢水の有無
<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すると、溢水に至った日時、場所及びその程度についてはともかく、本件水害時において水場川から溢水した事実を認めることができる。
そこで、溢水の状況及びその程度について、以下検討する。
2 溢水状況とその程度について
(一) 湛水状況
湛水状況についての当裁判所の認定判断は、原判決理由六1(原判決D―12丁表一行目冒頭から同裏五行目末尾まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。
(二) 溢水状況
<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められる(判示中の各地点及び場所等については、原判決別紙第16図に記載のとおりである。)。
(1) 昭和五一年九月八日から降り始めた雨のため、水場川河口排水機場では、同日午後一一時ころからポンプの運転を開始したので、早川宗一は同時刻ころから、星野廣二、横井[金利]治は九日午前零時ころから、右排水機前面の除塵機が取り除いたごみを除去する作業に従事したが、八日午後一一時ころ、早川宗一が北野橋と排水機場の間の水場川左右岸堤防を歩いた際には、道路もまだ冠水しておらず、水場川の水位も通常排水機の運転をする程度の高さであった。
(2) 九日午前三時ころ、横井忠三が右ごみの除去作業に加わったが、同人がそのころ水場川の水位を見た際も、特に異常はなかった。なお、そのころ、早川宗一が、北野橋から右折して東の方へ行ったところ、道路の低い箇所では自転車のタイヤが水に沈むくらい湛水していた。
(3) 九日午前八時ころ、早川宗一、星野廣二、横井[金利]治及び横井忠三は、右作業を終えて、それぞれ排水機場から引き上げたが、その際の排水機場付近の水場川の水位は、堤防天端から数十センチメートルの余裕があり、堤防の道路も水が溜まった状況は見られなかったものの、左右の堤内地の田は七、八〇センチメートルに成長していた水稲がほとんど水没する位に内水位が上昇していた。さらに、同人らの帰途、道路の冠水等は各所で見られた。
(4) 九日午前八時ころ、新川町の職員である石田耕治は、水場川排水機場でポンプ運転をするようにとの指示を受け、自家用車を運転して排水機場へ向かったが、途中道路が冠水していたため回り道をし、重中橋から排水機場まで水場川左岸堤防を走行したが、その際、水場川の水位はまだ堤防天端に達しておらず、堤防道路も水溜まりがある程度で、冠水していなかった。そして、同人がポンプ運転等の業務に従事する間、水場川の水位や排水機場付近の堤内地の内水位はともに徐々に上昇して行った。
(5) 九日午後一時半から三時ころの間に、浮野小学校の校長である矢島英勝は浮野学区内を見回り、同小学校から塚前橋手前までの水場川右岸堤防を自転車で走ったところ、その間に水場川が溢水している箇所はなかったが、塚前橋付近から東南方向には、既に一階部分が浸水している住宅が見えた。
(6) 九日午後二時半ころ、石田耕治は、排水機場付近の水場川の水位が堤防天端付近まで上昇しているとともに、付近の堤内地の内水位も天端付近まで上昇しているのを見た。また、午後三時ころには、株式会社木村コーヒー店名古屋工場付近(第四地点)等でも、水場川の河道が満水状態となるとともに、同所の内水位も堤防天端付近まで上昇していた<証拠略>。そして、九日午後三時ころ、排水機場付近においては、堤防が完全に水没するまでになり、ここに水場川は同箇所付近において溢水するに至ったが、既にこのとき、同箇所付近の堤内地の内水位も堤防高を越える高さにまで上昇していたため、外水位及び内水位とも堤防高を越え、付近は一面海状を呈することとなった。
(7) 水場川の内・外水位はその後も少しづつ上昇を続け、九日午後九時から一〇時には時間雨量五〇・五ミリメートルの本件水害時における最大強度の降雨があったため、そのころから翌一〇日にかけて内・外水位は最高となり、内・外水位とも堤防天端を越える事態が上流に広がっていった。
排水機場付近では、一〇日午前一時ころ、内・外水位とも最高となり、排水機場のコンクリート床に冠水を始めたことから、新川町職員である森田鉦明らが排水機を守るために土嚢を積んで浸水を防いだが、排水機の運転によりこのころをピークに水位は徐々に下がっていった。
しかし、これより上流部では、一〇日午前中まで外・内水位ともなかなか下がらず、名古屋市西区役所山田支所長である大曽根芳朗が同日午前七時半から八時ころ管内を視察した際にも、西原町東礪運輸前の第一地点で、四ないし五メートルの幅で、道路を這う程度の深さで溢水しているのが見られた。
(三) 控訴人らの主張について
これに対し、控訴人らは、九日午前七時三〇分ころ、水場川は新川町、西区新木町及び同十方町地内において、河道内の外水が左岸堤防を乗り越えて溢水し、溢水は時間を追って順次上流部に進んだ旨主張する。
そして、原審において、<証拠略>は、右主張に沿う旨の供述をし、また、<証拠略>にも右主張に沿う旨の記載があるので、以下においては、特に右供述等の時間的正確性の点を中心に検討する。
(1) <証拠略>は、九日未明ころ、第二地点から江崎橋くらいの間で水場川が溢水しているのを目撃した旨供述している。
しかしながら、<証拠略>の供述は反対尋問を経ていない上、<証拠略>はさらに、浮野橋から水場川東側堤防を車で笠取橋付近を下ったが、その間橋と橋との間の低いところも水場川から溢水しており、また、笠取橋から南側は水が深くて通行できなかった旨をも供述するところ、右供述は、その時間帯の溢水状況に関し、前掲の各証拠のみならず以下の各証人の供述とも食い違うもので、はたして九日未明の状況であったのか疑問があるといわざるを得ず、結局、<証拠略>の前記供述は採用できない。
(2) <証拠略>は、九日午前七時二〇分ころ、第三及び第四地点で水場川が溢水しているのを目撃したほか、その後木村コーヒー店名古屋工場二階の事務所から第五地点で溢水しているのを目撃した旨供述している。
ところで、<証拠略>によれば、<証拠略>は、第四地点付近に存する株式会社木村コーヒー店名古屋工場長であり、前記供述も、徒歩での出勤途上や右工場内で溢水状況を目撃した際の自己の具体的経験を述べたものであることからすれば、安易にその信用性を排斥し難いことは、控訴人ら主張のとおりである。
しかしながら、<証拠略>の供述を仔細に検討すると、<証拠略>が、水場川の水が塚前橋を乗り越えるのを見たが、その際水場川の左右岸の堤防(<証拠略>の写真等からも、堤防の高さが塚前橋の高さより低いことが窺える。)は冠水していなかったと供述するのは矛盾であることなど、直ちには採用し難い点が指摘できることに加え、右時間帯の溢水状況に関し、<証拠略>は前記認定のとおりの相反する証言をしていることに照らすと、結局<証拠略>の前記供述は採用し難いというべきである。
なお、控訴人らは、<証拠略>について、石田が当日の勤務交替時間に遅れることが必至で極めて焦っていたことは推測に難くなく、また、車の走行に支障はなかったというのであるから、自らが通行している堤防上の道路の状態、水場川の増水の程度について、注意深く観察したとは考えられないから、<証拠略>や<証拠略>の供述より信用性が高いとすることはできない旨主張する。しかしながら、<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すると、排水機場の勤務態勢は、道路の冠水等による交通障害等により交替要員が交替時間に遅れても支障が生じないように、交替要員が着くまで前任者が勤務を継続するという柔軟な勤務態勢が採られていた上、石田は当日朝交替時間が迫ってから電話で排水機場の勤務につくよう指示され、急きょ排水機場に向かったもので、同人の怠慢で交替時間に遅れたのではないこと、同人の供述内容からも、同人がことさらに焦っていた様子は窺われないことに加えて、石田が当日排水機場のポンプの運転の勤務につく者として、水場川の増水等の状況に関心を払いながら堤防上の道路を通行したことは、その供述からも窺えるのであって、溢水等の異常事態の存在に気が付かないとは考えられないところであるから、控訴人らの右主張は採用できず、<証拠略>に信用性がないとすることはできない。
(3) <証拠略>は、原審において、九日午前七時二〇分ころ、第六地点で水場川が溢水しているのを目撃した旨供述している。
しかしながら、<証拠略>は、午前七時二〇分ころ付近の道路や田は普通の状態であったのに、水場川から溢水した後、午前一〇時過ぎころには水場川も水没するほど一面海のような状態になっていたもので、これは水場川から溢流した水が原因であるというものであり、控訴人ら申請の証人や控訴人本人を含め他の証人の供述等と比較しても、ことさらに堤内湛水の原因が水場川からの溢水であることを強調する態度が窺われるもので、とりわけ<証拠略>が右供述と相反する前記(一)に認定したとおりの趣旨の供述をしていることに照らして、採用できないというべきである。
なお、控訴人らは、<証拠略>の供述は、排水機場前の水位に対する記憶から、北野橋から笠取橋の間の水位を推し量っているのであって、保存された記憶に基づくものではないし、<証拠略>の供述は、水場川の目撃状況は反対尋問で触れられたものにすぎない上、「平水」より多少深かったとの曖昧な供述にすぎないのであって、いずれも信用性がなく、控訴人高田本人の供述を排斥し得るようなものではない旨主張するが、<証拠略>及び<証拠略>の各供述によれば、同人らはいずれも、九日午前八時ころまで排水機場において作業に従事して、排水機場から引き上げたが、その帰途に目撃した水場川の水位につき供述するもので、その内容に矛盾や、曖昧な点は見られず、星野証人の供述が記憶に基づくものではないとの控訴人らの主張は当たらないし、<証拠略>の「平水」との表現も独自のものとはいえ、その意味するところはその供述により明らかであるといえるから、控訴人らの右主張は採用できない。
(4) <証拠略>は、九日午前九時過ぎころ、官用車を運転して重中橋に至り、第一及び第二地点で水場川が溢水しているのを目撃した旨供述している。
しかしながら、<証拠略>は、右溢水状況については具体的かつ詳細であるのに対し、その直前、直後の状況を含め、その他の点については極めて曖昧な供述に終始しているのであって、全く不自然というほかなく、前掲各証拠に照らしても、採用できないものである。
(5) <証拠略>は、九日午前九時過ぎころ、十方町九丁田橋付近で水場川が溢水しているのを目撃した旨供述している。
しかしながら、<証拠略>は、溢水を目撃した時間も曖昧であり、溢水状況も不明確である上、溢水を目撃したこと自体についてすら明言を避ける態度が窺われるのであって、前掲各証拠に照らしても、採用できないものである。
(6) <証拠略>は、九日午前一〇時ころ、十方橋と九丁田橋との間の地点で、一メートルくらいの幅で水場川が溢水しているのを目撃した旨供述している。
しかしながら、<証拠略>は、簡略にすぎ、溢水を目撃した時間や状況も不明確であって、前掲各証拠に照らしても、採用できないものというべきである。
(7) <証拠略>(昭和五一年九月一四日付、名古屋市立浮野小学校長矢島英勝作成の名古屋市教育委員会宛「台風一七号に伴う経過」についてと題する文書)中には、「八日夜来の大雨により、学区内を北から南に流れる水場川溢流。…(中略)…道路冠水(七時三〇分ころ)」との、水場川が九日午前七時三〇分ころ溢水した趣旨とも解せられる記載がある。
しかしながら、<証拠略>は、右記載は溢流が七時三〇分であった旨の記載ではないと明確に供述していること、右文書には、「水場川溢流。」の記載の後は、溢水状況に関する記載は全くなく、むしろ内水等による冠水(湛水)状況の変化が時間を付記して詳細に記載されていることなどを併せ考えると、右「(七時三〇分ころ)」の記載は、水場川溢流の時刻ではなく、冠水状況についての時刻の記載と解せられ、結局、右記載をもって、水場川が九日午前七時三〇分ころ溢水したことを認めるに足りないといわざるを得ない。なお、控訴人らは、溢流に関する右記載の後に、「九時以降、断続的に強い降雨、冠水地増大。」との記載があることから、水場川溢流は午前九時以前の出来事と読むべきであるとも主張するが、冠水地の増大が水場川溢水によるとの記載ではなく、また前記のとおり、「水場川溢流」の記載に続く部分は、むしろ冠水状況の変化に着目してそれを記載した趣旨とも解せられるのであって、控訴人の右主張も採用できない。
また、<証拠略>(「台風一七号による水場川溢水に対する浮野地区水害対策委員会記録」と題する文書の写し)にも「九日午前一一時ころ、溢水道路環水(原文のママ)のため交通規則」との記載があるが、溢水に関する記載は右に止まり、その内容が簡略に過ぎ、これにより溢水の具体的状況を認定することは困難である。
(8) また、控訴人らは、本件水害後間もない時期に、水場川堤防が相対的に低く溢水を生じた部分に、溢水防止を目的にパラペットが設置されたことからも、多くの地点で溢水を生じたことを推認できる旨主張する。
しかしながら、溢水防止を目的に水場川堤防にパラペットが設置されたことは当事者間に争いがないものの、これだけでは、パラペットの設置位置に本件水害時溢水があったものと認めるに足りず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
以上のとおりであるから、控訴人らの水場川の溢水状況についての前記主張は採用できない。
(四) なお、被控訴人らは、水場川からの溢水はほとんどなかったと主張し、<証拠略>を援用するので、これにつき検討する。
(1) <証拠略>を総合すると、再現計算書は、被控訴人県において、水場川流域を含めた周辺の地域における本件水害当時の内・外水の状況を水理学的計算により再現しようとしたものであること、河道・水路・樋管・堤防高・最高湛水位等については現地で実測した数値に基づいてモデル化したこと、計算の方法は、原判決別紙第10図のとおり、水場川流域を流水の移動に影響する自然的・社会的条件(国道二二号線等)を考慮して一三ブロックに、水場川河道を一〇区にそれぞれ分割し、八日から一〇日に降った第一波の降雨を対象に、西部消防組合消防署の観測雨量を基にして、流域内の上流から下流へのブロック間の内水の移動を不等流計算により、河道内の外水の流れ及び新川への外水の流入を不定流計算により三〇秒毎(ただしプリントアウトは三〇分毎)に計算したものであること、以上の計算方法を図式化すると原判決別紙第11図のとおりであり、右計算結果に基づく4ブロック(原判決別紙第16図の第一、二地点を含むブロック)、9ブロック(同第四地点を含むブロック)及び5ブロック(同第三、第五、第六地点を含むブロック)における各水位の変化は、原判決別紙第12ないし第14図のとおりとなることが認められる。
(2) なお、控訴人らは、<証拠略>に依拠し、再現計算書には種々の問題点があり、その再現計算結果は信用性がない旨主張する。
しかしながら、<証拠略>によれば、再現計算書において用いられた氾濫モデルによる解析手法はその目的に照らして十分信頼に足りるものということができ、控訴人らの非難は必ずしも妥当しない(例えば、控訴人らは、再現計算書は二次元不定流解析でなく、一次元不等流解析手法を用いていると非難するが、再現計算書は二次元的な不定流解析を行っているのであって、右非難は誤解に基づくものといわざるを得ない。)。
(3) もっとも、このような再現計算は、いかに精度を高めようとも多くの仮定が入るものであるところ、河川工学・水理学等は経験工学といわれ、未解明な要素の多い自然現象を対象とし、経験的要素が占める比重も多いため、現代科学が必ずしも得意としない分野であって、洪水という現象を再現するにもその再現性は必ずしも高くないことも明らかなところである。したがって、このような多くの仮定の上に立ち、そのため必ずしも水害当時の洪水の状況を忠実に再現しているとは認め難いこの種の水理学的計算の結果を無批判に受容することはできないというべきである。そして、右計算結果の精度が明らかではない(ちなみに、<証拠略>において、久地野地点における新川の推定水位と実測水位とを比較しているが、右水位の差につき信頼度九〇パーセントの偏差値は±三七センチメートルであるとはいえ、最大誤差は六四センチメートルであり、また、推移の時間差も一時間程度ある時間帯も見られる。)以上、少なくとも、河道からの溢水が何時、何処で発生したかというような個別的な事実認定にあたっては、右計算結果を採用することは相当でないといわざるを得ない。
(4) そうすると、被控訴人らの主張につき、<証拠略>を根拠としては採用することができないというべきである。
(五) 溢水の程度
(1) 前記2(二)に判示したところによれば、水場川河口排水機場付近では、九日午後三時ころ水場川が溢水に至るまで、堤内地の内水位も徐々に上昇し、溢水した際は、既に同箇所付近の堤内地の内水位も堤防高を越える高さにまで上昇していたため、外水位及び内水位とも堤防高を越え、付近は一面海状を呈することになったもので、その他の箇所でも、同日午後一時三〇分ころから三時ころの間に水場川左岸の堤内地において既に建物が床上浸水するなど、内水位が上昇していたのに対し、大曽根芳朗が一〇日午前七時半から八時ころに第一地点で溢水を目撃した際の状況は、幅は四ないし五メートル程度、溢水の深さも道路を這う程度であって、溢水の規模としては小規模のものであったことを窺うことができる。
そして、九月一〇日午前一〇時から一一時ころの水場川下流部付近を撮影した<証拠略>においては、水場川の両岸の堤内地が広い範囲にわたり一面海状に湛水しているのに対し、水場川の外水位は堤防高を越えているとはいえ、水場川の両岸堤防上に生えている葦は水没することなくはっきりと二列に見ることができる上、川から堤内地の方へ水が動いているとは認められず、河道からの溢水の深さはさほど深くないことが窺える。
これらの事実からすると、本件溢水の状況は、水場川の外水位のみが上昇して溢水し、河道から堤内地に大量の外水を流入させ、堤内地の内水位を急激に押し上げたというようなものではなく、むしろ、水場川の溢水に至るまでに堤内地の内水位も堤防高付近まで上昇しており、河口部付近では、溢水というよりは、外・内水位ともに堤防高を越え、一面海状を呈したものであるし、その他の箇所でも、一部堤防の低い箇所でさほど深くない程度に溢水したにすぎないというべきである。
そうだとすれば、堤内地を湛水させた原因は、そのほとんどが内水であるというべきである。
(2) そして、前記二に判示のとおりの、豪雨の際、袋状の低地である水場川流域の袋の入り口である北方から大量の水が流入し、水場川上流部域に降った雨水をも併せ、水場川及び地区内水路に収容しきれない分は、その地形勾配に従い、水場川下流部域に移動するという水場川流域の自然的特性をも併せ考えれば、本件水害時に堤内地に生じた湛水は、その多くが水場川流域に降った雨水及び水場川上流域又はその北方の地域に降った雨水が流下してきたものであると認められること、そして、これらの雨水は、通常は、地区内排水路から水場川に排水されるのに、本件豪雨により水場川の外水位が上昇したため地区内水路のマイターゲート・フラップゲートが閉じられ、水場川に排水できず、湛水が生じたものであること、もともと、原判決理由三3に判示のように、水場川は小河川であり、その溢水をもって堤内地を水浸しにするような容量の洪水を運ぶ河道を有するものとは到底いえないこと、なども、堤内地を湛水させた原因は、そのほとんどが内水であることを裏付けるものといえる。
(3) ところで、<証拠略>によれば、再現計算書による再現計算の結果、九日午後一〇時三〇分ころ、水場川下流右岸の5ブロックの湛水量は約四七万立方メートル、そのうち河道から溢れた水量は一〇〇〇立方メートル程度で、その割合は〇・一ないし〇・二パーセントとの結果が出ていることが認められる。なお、前記2(三)で判示したとおり、再現計算書の再現計算は本件水害当時の洪水の状況を忠実に再現しているとは認め難く、この種の水理学的計算の結果を無批判に受容することはできないというべきであるが、内・外水比率といった概括的な事実に関しては、客観的に認定し得る事実に符合し、合理的である限りはこれに依拠することができると解するのが相当であり、かつ、右計算の結果は、以上の認定の湛水の状況等と大きく食い違うところはないものというべきである。
(4) 以上を総合すると、本件水害をもたらした全湛水中、河道から溢れた外水の占める割合は、〇・一ないし〇・二パーセントであるかはともかく、湛水量全体からみれば僅かな量にすぎないというべきである。
3 本件水害の原因
(一) 湛水及び溢水の原因について
以上のとおり、本件水害時においては、水場川流域がもともと内水湛水を生じ易い地理的状況にあることに加え、生起確率が八〇年ないし九〇年に一回という規模の本件豪雨があったため、膨大な量の内水湛水を生じたものであり、湛水の原因のほとんどは内水によるものであるが、さらに、本件水害時に、水場川下流部の流下能力毎秒約三〇立方メートルの河道が満水状態になった上、河道から溢水するに至ったことも前記五1に判示したとおりである。
そして、前記三に判示したように、水場川は計画対象降雨(生起確率五年ないし一〇年に一回)の規模の降雨による洪水であれば、これを溢水させることなく新川に排水し得る能力を有していたことに鑑みると、本件水害時に水場川が溢水したのは、本件豪雨のうち第一波の降雨が前記四に判示のとおり約一・五日間の累計雨量では生起確率が八〇年ないし九〇年に一回という計画対象降雨の規模をはるかに超え、豪雨が長時間継続する点で異常な降雨であったため、河口部の一〇トンポンプの排水能力及び河口部の貯水能力をもってしては対処し得ない洪水を生じたことによるものと考えられる。
(二) なお、控訴人らは、<1>河道からの溢水、<2>河道に流入できないため上流部域から本件被害地域に流れ込んできた水、<3>河道に流入できないで湛水した本件被害地域への降水、これらが渾然一体となって、本件被害を発生させたというべきであって、その原因のほとんどが内水という証拠はなく、また、再現計算書の計算結果に依拠することはできないから、<1>が湛水量の〇・一ないし〇・二パーセントであるとはいえない旨主張するところ、河道からの溢水の量が湛水量の〇・一ないし〇・二パーセントであると断ずることができないことは右主張のとおりであるものの、本件における湛水の原因はそのほとんどが内水であるというべきであることは以上に述べたとおりであるから、控訴人らの主張は失当である。
六 被控訴人らの責任について
以上に判示したところをふまえて、水場川の管理上の瑕疵の有無について検討する。
1 溢水被害について
控訴人らは、まず、本件湛水により控訴人らが被った浸水被害は水場川の溢水によるところが大であるとしてその被害の賠償を求めるが、本件湛水のほとんどは内水の湛水によるものであって、溢水による寄与の割合は極めて小さく、それのみでは本件浸水被害が発生し得ず、したがって、水場川の溢水は無視できる程度のものであることは前記五において認定した事実から容易に推測し得るところであるから、右主張はその前提において失当である。したがって、右溢水は控訴人らの損害との間に相当因果関係があるとは認めることができず、被控訴人らに右溢水についての責任を問うことはできないというべきである(なお、仮にそうではないとしても、本件溢水は、計画対象降雨を上回る豪雨に起因するものであることは、前記五3(1)で判示するとおりである。)。よって、控訴人らの本件請求中溢水被害を理由とする部分は、理由がない。
2 内水被害について
本件水害の原因が主に、異常な降雨により本件被害地域に内水が湛水したことによるものであること、右内水湛水は、水場川流域に降った雨水や水場川上流部域又はそれよりも北方の地域に降った雨水が流下してきたものが、水場川の外水位の上昇により水場川に排水できなかったことにより生じたものであることは、前記五に判示したとおりである。
そこで、河川管理者が、河道内の流水のみならず、このような内水の湛水についてまで責任を負うか否かがまず問題となるので、以下、この点について検討する。
(一) 河川管理者の防災対策上の責務について
(1) 右の点についての控訴人らの主張(原判決事実第二の一4(三)、5(一)(2)<4><5>)は、要するに、本件被害地域はそもそも内水湛水の被害が生じやすい危険区域であるところ、河川管理者は予測される危険区域には人命や財産を近づけないようにして被害を回避軽減するとの防災対策をもなすべきであり、例えば、<1>河川法に基づく河川区域(河川法六条一項三号)、河川保全区域(同法五四条)を指定し、同区域内における土地利用上の制約を定め(同法二六条ないし二九条、五五条)、<2>右河川保全区域外であっても、水害発生の危険のある区域については、河川管理者においても都市計画法による用途地域変更(特別工業地域や準工業地域への用途変更)に同意しないなどの措置を採ることによって、危険区域内の土地利用に防災上の観点からの制約を加え、具体的な土地利用を水田、遊水池等の一定時間洪水を貯留できるものに限定し、無制約に人命や高価な財産たる居住、工場などが配置されることを抑止すべきであったというのである。
(2) しかしながら、控訴人らの右主張は、為政者の政治上ないしは行政上の責務としては理解できなくもないが、以下に述べるとおり、国賠法上賠償請求の根拠となる河川管理者の法的責任としては構成し得ないものである。
ア 控訴人らの主張<1>について
控訴人らがその主張の根拠とする河川法六条一項三号は、河川管理者に河川区域の指定をする権限を付与し、同法二六条ないし二九条は河川区域内の土地の利用につき、工作物の新築等や土地の掘削等を河川管理者の許可にかからしめるなどの制限を設けているところ、右指定の対象は、河川管理者が指定するまでもなく同法六条一項一号、二号によって当然に河川区域とされる土地(河川の流水が継続して存する土地等及び河川管理施設の敷地)と一体として管理を行う必要がある土地に限定されているし、また、同法五四条は、河川管理者に河川保全区域の指定をする権限を付与し、同法五五条は河川保全区域において、工作物の新築等や土地の掘削等を河川管理者の許可にかからしめているところ、右指定の対象も、河岸又は河川管理施設を保全するために必要がある場合の河川区域に隣接する一定の区域に限定されているから、これらの規定に基づき、河川管理者が堤内の水害被害を受けるおそれのある土地につき、その利用を制限し得るということはできない。
イ 控訴人らの主張<2>について
都市計画法上、用途地域変更に際し、河川管理者の同意を求めなければならないとする規定はないから、河川管理者が、堤内の水害被害を受けるおそれのある土地につき、用途変更に同意しないことにより、その利用を制限し得るとの控訴人らの主張も失当であり、他に、現行法上、河川管理者による、河川区域及び河川保全区域外の堤内地の用途制限を許容する趣旨の規定は見当たらない。
(二) 河川管理者の内水管理責任について
(1) この点について、控訴人らは、まず、河川管理者は、河川の河道内に収容され得た降雨の管理についてのみ責任を負うのではなく、当該河川流域に降った降雨の全部を安全に流域から排除する責任を負っており、いわゆる内水湛水、内水氾濫についても全て責任を負わなければならないとの趣旨の主張をする(原判決事実第二の一4(二)、(三))。
(2) しかしながら、内水そのものの管理は、内水管理者においてまず行うべきものであって(地方自治法二条三項二、三号参照)、堤内地に降った雨水を調節池・遊水地等に湛水させるのか、直ちに河川に排水するのか、河川に排水するとして、どのような排水方法を選択するのか、また、排水場所をどこにするのか、さらには公共下水道の整備その他の方法により湛水を防ぐのかは、内水管理者の決定選択すべき事柄(本件水害後、内水管理者である名古屋市において、水場川流域の都市化に対応して公共下水道を整備する必要があることを認め、その事業中において、水場川流域の一部を含む地域の内水を新川に排水する方法を選択したことは、前記二で認定のとおりである。)であって、河川管理者の権限の及ばないところである。河川管理者は、河川の管理を通じて、当該河川における洪水等による災害の発生を防止し、又は軽減する責務を負うものであり、河川の管理は、本来、流域から河川に流入してきた雨水等を、溢水等の氾濫を引き起こすことなく安全に河道内を流下させ、これを流域外に排水することを目的とするものであることからすると、河川管理者の権限及び責任は、右目的を達成するのに必要かつ有効な範囲に及び、かつ、その範囲内に止まるものと解すべきである。
したがって、内水についての河川管理者の責任は、第一に、流域から河川に自然流入してきた内水を安全に流下させる責任を負い、第二に、河床の土砂の堆積など河川の機能を阻害する諸事情によって、流域からの内水の流入が妨げられている場合には、堆積した土砂を除去をするなどして右阻害要因の解消を図るべき責任があり、第三に、本件の内水区域のように、内水の自然排水が困難な地域について、内水管理者において内水を河川に強制排水するための強制排水施設を設置の上、その排水の受入れを求めてきたときには、河川管理者としては、右受入れによって下流の堤防の決壊・氾濫のおそれがない限り、これを受け入れるべき義務がある(将来内水管理者による右の要請が予想されるときは、河川管理者としては、それも含めて河川計画を定めておく必要がある。)ことなど、河川管理の手段によるものに限られるものであって、河川管理者において、河川区域・河川保全区域の範囲を越えて、当該河川流域に降った降雨の全部を安全に流域から排除する無限定の責任を負い、いわゆる内水湛水、内水氾濫についても全て責任を負わなければならないとの趣旨の控訴人らの主張は失当である。
(3) そこで、控訴人らは、さらに、本件内水は水場川の排水能力を高めることにより、排除可能であったものであり、本件水害時に水場川河口部に設置されていた一〇トンポンプを一五トンポンプに替えていれば、本件被害地域での内水被害は発生しなかった旨主張する。
しかしながら、前記認定事実に<証拠略>を総合すると、水場川の中・下流部域においては、洪水時に水場川の水位が上昇すると内水を水場川河道に排水することは不可能となるという地形的特徴があり、したがって、水害時に水場川の中・下流部域に滞留する内水を排除するためには、これに対応する、内水管理者による強制排水施設の設置が先決であったこと、しかし、これらの施設は当時未整備で内水が水場川河道に排水されることはなかったのであるから、控訴人ら主張のように河道の排水能力を高めればそれに比例して直ちに内水の自然排水が可能になるというものではないこと、すなわち、水場川河口に設置されていた排水ポンプの能力を控訴人ら主張のように毎秒一〇立方メートルから一五立方メートルに増やしたとしても、その程度では、本件水害時において、内水の自然排水を可能にする程度まで水場川の水位を低下させるには遠く及ばないこと(当時進行中の激特事業におけるポンプ増設計画によれば、右ポンプの排水能力を毎秒合計三〇立方メートルに増やすことを計画していたが、本件水害当時右計画が実現していたとしても、それでも水場川の水位はさして低下せず、内水の自然排水の効果は見込めないことが認められる。)が認められるから、控訴人らの右主張が採用できないことは明らかである。
(もっとも、河川管理者において、いかなる洪水時においても、水場川の水位を内水位より常に低く維持することができれば、内水管理者による強制排水設備の設置がなくとも、理論的には、内水区域における内水の自然排水が可能になる、と一応はいうことができる。そしてこれを実現するためには、前記認定事実からも明らかなように、水場川を大幅に拡幅して河道容量を増加させた上、水場川河口排水機の排水能力を大幅に高める(毎秒三〇立方メートルに増やすだけでは本件水害に対応できないことは、右に見たとおりである。)などその改修事業は大規模なものになることが予想されるところ、控訴人らの右主張中には、右のように水場川を改修する計画を立て、実施しなかったことをもって、河川管理者の管理の瑕疵をいう趣旨をも含まれると解される。しかし、この点については、水場川河川計画の合理性に関わる問題であるので、後記3において触れることにする。)
(三) そして、仮に、内水につき、河川管理者が右(二)において説示した以上の責任を負うべきだとしても、本件内水湛水は、計画対象降雨を大きく上回る異常な降雨によってもたらされたものであることは、前記五において判示したとおりである。
3 水場川河川計画の合理性の有無
水場川は、前記のとおり、出水時に内水区域においてはその地形上の特徴から内水を水場川に排水することのできない構造となっているところ、控訴人らの前記主張中には、河川管理者は内水排水を可能ならしめるように河川管理施設を維持すべきであるところ、河川計画中においてこれを考慮しなかったのは、河川計画の合理性を欠くとの主張も含まれると解されるので、以下この点について判断する。
(一) (河川の管理に関する瑕疵判断の基準について)
国家賠償法二条一項の営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が通常有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険性のある状態をいい、このような瑕疵の存否については、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきものである。
ところで、河川は、当初から通常有すべき安全性を備えた物として管理が開始されるものではなく、管理開始後の治水事業を経て、逐次その安全性が達成されてゆくことが予定されているものであるから、河川が通常予測し、かつ、回避し得る水害を未然に防止するに足りる安全性を備えるに至っていないとしても、直ちに河川管理に瑕疵があるとすることはできず、河川の備えるべき安全性としては、一般に施行されてきた治水事業の過程における河川の改修、整備の段階に対応する安全性をもって足りるものとせざるを得ない。結局、河川の管理についての瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、河川管理における財政的、技術的及び社会的諸制約のもとでの同種・同規模の河川の管理の一般的水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきであると解するのが相当である(大東水害最高裁判決及び多摩川水害最高裁判決参照)。
そして、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更するなどして早期の改修工事を施行しなければならないと認めるべき特段の事由が生じない限り、右部分につき改修がいまだ行われていないとの一事をもって河川管理に瑕疵があるとすることはできないと解すべきである(大東水害最高裁判決参照)。
(二) これに対し、控訴人らは、国家賠償法の基本理念について、<1>「損害の公平な分担」の理念を機能させるべきである、<2>河川管理における国の責任は、自らの手で河川を管理する者が負う第一次的責任である、<3>救済上の管理概念は、行政上の管理概念と異なるとの認識のもとに解釈すべきである、などと主張する。
しかしながら、<1>の点についての控訴人らの主張の趣旨が、「損害の公平な分担」の見地から国又は公共団体の賠償責任を肯定するに際し、公の営造物に係る設置管理の瑕疵の有無を問うべきではないとする点において、国家賠償法二条一項の規定を無視するもので、採用できないことは明らかであるし、<2>の点についての控訴人らの主張は、前記のような河川管理における特質を無視し、かつ、財政的、技術的及び社会的諸制約を無視する結果を招来する点で、やはり採用できないというべきである。また、<3>の点については、本件では損害賠償責任が問題となっているのであり、差止請求との抽象的な対比は意味がないといわざるを得ない。
また、控訴人らは、大東水害最高裁判決及び多摩川水害最高裁判決について、<1>営造物の性質を考えるに当たって、営造物につき設置管理者の手による特別の公用開始行為があったかどうかという点を重視し、その有無により営造物の性質を区分しようとしているが、右の点は営造物の性質を規定する基本要件の一つとはなり得ず、これによって、河川管理とその他の営造物の管理との間に大きな差異を設けることは許されない、<2>大東水害最高裁判決のいう「過渡的安全性」、多摩川水害最高裁判決のいう「河川の改修、整備の段階に対応する安全性」の考え方は、道路と河川の差異を強調するものである点や、安全施設や治水事業の完成度が十分でなく自然に起因する災害発生の危険のある区域に人命や財産を近づけないことにより、損害発生を回避するとの防災対策の考え方を全く無視する点で誤りである、<3>工事実施基本計画を重視し、これを在るべき安全性の上限として原則的に承認する結果、伝統的河川行政の姿勢と在り方を手放しで免責するもので誤りである、<4>その述べる瑕疵基準は、日本全国に存在する全部の河川の中から当該河川と同種・同規模の河川を選びだし、その各々についてその指摘するような諸般の事情を総合判断するという膨大な、むしろ不可能な作業を要求するもので不合理である、などと主張するが、いずれも、右各最高裁判決を正解しない独自の見解であって、採用し難いといわざるを得ない。
(三) 水場川の改修計画とその合理性の有無
(1) 水場川の河道改修計画により、水場川の河道は、下流部において、被控訴人国の中小河川における当面の行政目標である時間雨量五〇ミリメートル程度の降雨に対応する毎秒三〇立方メートルの流下能力を有することとなったこと、本件水害当時、水場川は右河道の貯水能力と、河口排水機の排水能力(毎秒一〇立方メートル)により、計画対象降雨の規模の降雨の際、水場川の水位が内水位より高くなった場合は内水が河道に流入することはできなくなるという水場川河道の現況を前提とする限り、水場川の河道内の水を溢水させることなく新川へ排水できる能力があったことは前記三に判示のとおりである。
そして、<1>水場川河道の改修工事が昭和五〇年に概成する見通しが立ったことに加えて、<2>新川における堤防補強、漏水防止、土砂のしゅんせつ等の改修工事が昭和五四年ころには概成する見通しが立ち、水場川から新川への排水に安全上の問題がなくなったことから、<3>水場川流域の都市化の進行による流出増や、これに伴い内水管理者による水場川への強制排水能力を伴う内水排水施設の設置等の可能性に対処するため、時間雨量五〇ミリメートル、日雨量一五八ミリメートルの降雨を対象とし、流域内の内水がすべて水場川へ流入することを前提として、水場川河口排水機場に毎秒二〇立方メートルの能力を有する排水機を増設し、排水能力を合計三〇立方メートルにすることが、昭和四九年に計画され、本件水害時には現に改修中であったことは前記のとおりである。
(2) そこで、前記1(一)に判示した判断基準に基づいて、以上の水場川の改修計画の合理性につき検討するに、<1>時間雨量五〇ミリメートルの降雨に対処するという被控訴人国の当面の行政目標については、河川の管理には多くの財政的、技術的及び社会的制約が伴うことに鑑み、一朝一夕には達成できない河川の改修を順次進めていくための当面の行政目標として不合理とは認められないことに加えて、上記認定事実によれば、<2>河川管理者は、内水管理者から内水の受入れを求められた場合、右内水の受入れによって下流に破堤・氾濫の危険がない限り、これを受け入れるべき義務があるところ、河川管理者において、内水管理者からその受入れを求められた場合に備えて、昭和四九年には水場川河口排水機場に毎秒二〇立方メートルの排水能力を有する排水機を増設するを計画していたこと、<3>そして、右計画の樹立が昭和四九年になったのは、新川改修工事が昭和五四年に概成することによって、水場川から新川への排水を安全に行える見込みが立ったからであって、右計画の樹立が殊更に遅れたものではないことが認められる上、<4>右当面の行政目標の達成率について見てみると、<証拠略>によれば、昭和五六年度末で中小河川の達成率が一八パーセント程度であるのと比較して、現況の河道を前提としてではあるが、水場川の改修事業においては、右目標を達成していることが認められるから、他の中小河川に比して遅れているとはいえず(なお、大河川における当面の行政目標は、戦後最大洪水に対処する改修を実施するものとされ、その達成率は同年度末で五八パーセント程度であることが認められるが、大河川においては、災害の発生時に人命や財産を及ぼす可能性が高いことから、その整備を中小河川より優先したものと考えられ、これをもって、水場川の改修事業が遅れているということはできない。)、<5>また、<証拠略>によれば、水場川と愛知県内の他の中小河川とを比較した結果は原判決別表8のとおりであり、水場川の改修は愛知県内の同規模の河川と比較してむしろ進んでいることが認められる。
以上のとおりであって、水場川の改修計画及びその実施状況は、その内容等を検討しても、また同種・同規模の河川の管理の一般的水準等に照らしても、格別不合理であったとは認められない。
(四) これに対し、控訴人らは、水場川の改修計画には、水場川河口排水機の能力の不足等の不合理があった旨を主張するので、以下順次検討する。
(1) 控訴人らは、水場川増水時には、当然新川も増水し、自然排水は不可能となるから、河口排水機によるポンプ排水が不可欠であるのに、その具体的排水能力拡充の検討と準備のないまま、<1>従前は水場川上流部に保水されていた洪水を短時間に河口に集中させ、下流部域における洪水の危険性を高める結果となる上流部の改修、及び、<2>当該部分の河道能力を毎秒三〇立方メートルに拡充するという下流部の河道改修を先行させながら、その対策としては、水場川の河道の流下能力に比して著しく容量の小さな一〇トンポンプ一機を設置したにすぎないのであって、このような水場川改修計画ないし工事は流域全体の治水機能等の配慮を欠いた極めて不合理なものであり、瑕疵があるというべきである旨の主張をする(原判決事実第二の四(四))。
控訴人らの右主張は要するに、水場川河口排水機の排水能力が毎秒一〇立方メートルのままであったことをもって、水場川の管理上の瑕疵があったとするものであるところ、右主張が、水場川の排水能力の不備により水場川の溢水したことが本件水害の原因であることを前提とするものであれば、その前提を誤り失当であるというべきことは、前記五に判示したところから明らかである。
また、右<1>の水場川の河道改修により、従前は上流部に保水されていた洪水を短時間に河口に集中させ、下流部域の洪水の危険性を高めたとの点については、<証拠略>によれば、水場川の河道の改修前に存在していた井堰は用水の取水のための施設であると認められるところ、この井堰や上・中流部の複雑なループ状の河道が洪水調節の機能を果たしていたと認めるべき証拠はなく、かえって、<証拠略>に弁論の全趣旨を総合すると、改修前の狭小かつ複雑な河道のために排水状況が著しく劣悪であったため、河道改修により、河道を拡幅、直線化するとともに、新川との合流点における樋門を改築したもので、これにより、従前は水場川流域に降った雨水のほとんどが下流部域に滞留していたものを、その相当量を新川へ排出することができるようになり(なお、水場川の流域は約一一・八平方キロメートルであるのに対し、新川の流域は約一五〇平方キロメートルと一〇倍以上もあり、水場川流域における降雨により水場川の水位が上昇したとしても、新川の全流域に同程度の降雨があることは少なく、新川の水位がまだ上昇していない場合もあるから、水場川増水時には、常に新川も増水し自然排水が不可能となるとはいえないのである。)、湛水被害はむしろ軽減したことが窺えるのであって、水場川の河道改修が水場川の下流部の洪水の危険性を高めたとの控訴人らの主張は失当である。
次に、右<2>の改修後の河道能力(下流部毎秒三〇立方メートル)に対応した具体的排水能力拡充の検討と準備のないまま、河道改修を先行させ、下流部域の洪水による危険性を高めたという点については、水場川増水時には自然排水が不可能であるから、改修後の河道能力(毎秒三〇立方メートル)に対応した河口排水機によるポンプ排水が不可欠であることを前提とする主張と解されるところ、直ちにこれが不可欠であると前提することは誤りであるといわざるを得ない。なぜなら、水場川下流部の河道能力が毎秒三〇立方メートルであるとしても、流域内の内水の排水状況如何によって河道を流下する水流量は増減するところ、本件水害当時の現況は、水場川の内水区域の地区内水路に強制排水設備の設置がなく、水場川増水時に内水が流入することはなかったのであるから、河道改修後においても一〇トンポンプで対処し得たことは、前記三に判示したとおりである。
なお、本件水害後に二〇トンポンプが増設され、水場川河口の排水能力は合計毎秒三〇立方メートルとなり、水場川下流部の河道の流下能力に見合うものとなったことは前記のとおりであるものの、右二〇トンポンプの増設は、水場川流域の都市化の進行による流出増や、これに伴い内水管理者による水場川への強制排水能力を伴う内水排水施設の設置等による流出増に対処するためのものであることは前記(三)(1)に判示のとおりであるから、右二〇トンポンプが増設されたからといって、河道改修後直ちに河道の流下能力に見合う排水機が必要であったとはいえない。かえって、内水管理者により水場川への強制排水能力を伴う内水排水施設の設置等がなされない場合に、右二〇トンポンプを増設しても、内水湛水に対する効果が望めないことは前記2(二)(3)に判示したとおりである。
以上のとおりであって、河道改修を先行させたことが不合理であるとの控訴人らの主張は理由がないものである。
(2) また、控訴人らは、水場川下流部改修計画において、新川との合流点における計画排水量を毎秒三七・五立方メートルと想定し、水場川下流部の河道能力毎秒三〇立方メートルとする計画をしながら(なお、中・上流部においても、新川との合流点における最大流量が毎秒一七・五一九立方メートルとしながら)、湛水防除事業計画では、排水機の排水量が毎秒九・二立方メートル必要であるとして、毎秒一〇立方メートルの排水機を設置するに止まったもので、当時としても排水能力が不十分であることが明らかであったと主張する(原判決事実第二の四(三))。
下流部改修計画において、合理式により計算された新川との合流点における計画排水量が毎秒三七・五立方メートルと想定されていることは争いがないところ、右数値は、合理式の性質上、計画雨量が全て水場川の河道に流入して河口部に到達するという前提のものであるが、水場川の水位が内水位より高くなった場合は内水が水場川に流入することはできなくなる上、右内水を強制的に水場川に排除する設備も設けられていなかったから、水場川流域内の雨量が全て水場川に流入するという事態は現実には起こり得ないものであって、実際に、水場川増水時の水場川河口の流量は毎秒約一〇立方メートルから一五立方メートル程度であることは前記三に判示のとおりである。したがって、右改修計画における水場川河口の想定流量毎秒三七・五立方メートルや、河道能力毎秒三〇立方メートルを基準として、河口排水機の排水能力を決定すべきであるとの控訴人らの主張は、前提を誤り採用できないものである。
また、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、上・中流部改修計画においては、当該計画対象降雨につき単位図法により水場川の流量を計算すると、新川との合流点では毎秒一七・五立方メートルとなることが認められる(なお、前記下流部改修計画における想定流量と大きく食い違うのは、両計画における計画雨量、流出係数、集水面積等の基礎数値がいずれも異なる上、計算式も合理式と単位図法と異なるためであることが窺われる。)が、右数値も同様に、計画雨量に単位図法を用いて計算した場合の流出雨量が全て水場川河道に流入するものと仮定した場合の流量であって、現実にはこのような事態は生じないと解され、同様に、右流量を基準として、河口排水機の排水能力を決定すべきであるとの控訴人らの主張は、前提を誤るものである。
かえって、本件水害当時、河口排水機の一〇トンポンプの排水能力と水場川河口部の河道(流下能力毎秒三〇立方メートル)の貯水能力とによって、計画対象降雨の規模の降雨に対処し得たことは、前記三に判示したとおりである。
以上のとおりであって、河口排水機の能力は計画当初から不十分であったとの控訴人らの主張も理由がないものである。
(3) 平田終末処理場の建設について
さらに、控訴人らは、名古屋市が公共下水道事業の一環である庄内川雨水整備計画に基づき、庄内川北部の平田排水区につき雨水排除のため平田終末処理場内ポンプ場(二〇トンポンプ)の建設工事に着手していることを挙げ、右雨水整備計画では、時間雨量五〇ミリメートルの降雨に対して、合計五〇立方メートルの排水能力が必要であるとしており、このことは、水場川全体計画調査報告書が、将来計画として水場川河口排水ポンプ容量を五〇立方メートルであるとしていることとも符合するものであって、本件水害当時、水場川河口の排水能力としては、総体五〇立方メートルが必要であったというべきであると主張する。
そこで、検討するに、<証拠略>によれば、名古屋市は、公共下水道事業の一環として、庄内川北部流域の雨水整備計画(事業認可昭和五九年一一月七日、変更認可平成四年一〇月二一日)に基づき、平成四年度に平田終末処理場内ポンプ場及び平成雨水調整池の建設工事に着手し、平成九年度完成予定を目途に建設工事を進めていること、同計画のうち平田終末処理場の対象となる計画排水区域(以下「平田排水区」という。)は、庄内川北部の、北は西春町、西は新川町、清洲町及び春日町、南東は新川に囲まれた面積二・二三平方キロメートルの区域であるところ、その半分以上は水場川流域に含まれるが、東部及び東南部の一部は水場川流域外であること、同計画では、対象降雨を時間雨量六〇ミリメートル(一〇年確率)とし、そのうち、時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)の降雨による分をポンプ施設によって、新川に直接強制排水するとともに、残りをピークカットにより雨水調整池に一時貯留することとしていること、右ポンプ排水については、平田排水区における時間雨量五〇ミリメートル(五年確率)の降雨による雨水流出量を合理式により算定し、そのピーク流出量が毎秒約二〇立方メートルと算出されることから、右ポンプ排水能力を毎秒約二〇立方メートルと決定したこと、以上の事実が認められる。
そうすると、まず、控訴人らが、平田排水区がおおよそ水場川流域に重なることを前提としている点は誤りといわざるを得ない。
また、控訴人らは、下水道と河川は内水地域の出水を排水し、流域の水害を防止するものとして、相互に補完し合うもので、機能的に両者を合算して評価すべきであり、水場川の既設のポンプ排水能力合計三〇立方メートルと、右雨水整備計画による平田ポンプの排水能力二〇立方メートルとを合算して評価すべきであると主張する。しかしながら、下水道等の内水排水施設は、区域内の内水を河川へ排除する施設であり、河川は、内水排水施設から内水を受け入れ、これを安全に流下させて流域外へ排水する施設であって、機能的にも両者を合算して評価すべきものではないというべきである。
そして、支川が存し、区域内の内水を直接本川に排水することも、支川を経由して本川に排水することも可能である場合、いずれによるか、あるいは両者を併用するかは内水管理者において決定すべきものであり、右判示のとおり、名古屋市は、右雨水整備計画において、平田排水区の内水はこれをすべて直接新川へ排水することとしたもので、その排水能力の決定にあたっても、区域内の内水の一部を水場川へ排水することを前提とはしていないことが認められる。
他方、水場川の既設ポンプの排水能力が合計三〇立方メートルとなった経過は既にみてきたとおりであって、平田排水区の一部を含む水場川流域全体について、五年確率の降雨に対応すべく先ず一〇トンポンプが設置され、さらに、将来内水管理者が地区内水路から水場川に内水を強制排水する施設を設置した場合等における水場川の流出増に対処するため、二〇トンポンプを増設したものであって、右増設が昭和四九年に立案されていることからみても、以上の水場川のポンプ排水能力が、平田排水区の内水が新川に排除されることを前提として決定されたものでないことも明らかである。
したがって、名古屋市の雨水整備計画が、五年確率の降雨に対応する水場川の排水能力としては合計五〇立方メートルが必要であることを示しているとする控訴人らの主張は、いずれにせよ失当というべきである。
また、控訴人らは、水場川全体計画調査報告書においても、水場川の河口排水ポンプ容量としては五〇立方メートルが適当であるとしていることを挙げるが、甲第三二号証、原審証人本守眞人、同和田弘夫の各証言によれば、右調査報告書は、水場川流域での三〇年確率の降雨に対応するためのポンプ容量として五〇立方メートルが適当であるとするものにすぎない。
したがって、名古屋市の雨水整備計画等を根拠として、本件水害当時、水場川河口の排水能力としては、総体五〇立方メートルが必要であったというべきであるとする控訴人らの主張は、前提を誤るもので、失当というほかはない。
(4) ところで、控訴人らの主張中には、河川管理者は、河川の水位を内水位より常に低く維持することによって、内水管理者による強制排水設備の設置を待たずに、内水区域における内水の自然排水を可能にすべき義務があるところ、水場川の河川管理者である被控訴人らは、右河川につき、右のような観点からする改修計画を立てなかったとして、被控訴人らの管理の瑕疵をいう趣旨をも含まれると解される。
しかしながら、これを実現するためには、前記2において認定したことからも明らかなように、水場川を大幅に拡幅して河道容量を増加させた上、水場川河口排水機の排水能力を大幅に高める(毎秒三〇立方メートルに増やすだけでは本件水害に対応できないことは、右に見たとおりである。)必要があるなどその改修計画は、現行の河川計画を上回る大規模なものになることが予想されるところ、河川管理者が河川の整備水準を上回る河川改修計画を立てなかったことをもって、その管理の瑕疵に当たるとはいえないから、いずれにしても、右主張も採用できない。
(5) 以上のとおりであって、本件水害当時、水場川河口の排水機の排水能力が毎秒一〇立方メートルでは不十分であったとの控訴人らの主張は採用できないものである。
(五) 早期の改修事業を施行すべき特段の事情の有無
次に、水場川の改修工事の開始後、水害発生の危険性が特に顕著となり、当初の計画の時期を繰り上げ、又は工事の順序を変更する等して、早期の改修工事を施行すべき特段の事情が生じていたか否かについて検討する。
前記二に判示のように、かつて水場川流域及びその周辺は一面の農業地帯であったところ、昭和四〇年ころから市街化が進行しつつあり、そのため地域の保水能力が失われ、流出量が増加することに伴い、浸水時の財産的損失が増加することは当然予測し得たところであったと考えられる。これに対し、河川管理者が昭和二七年から河道改修工事を初め、昭和四五年には一〇トンポンプを完成させ、さらに本件水害後の昭和五四年に二〇トンポンプを増設するという形で対処してきたことは原判決理由四に判示のとおりである。
これを本件水害当時について見るに、一〇トンポンプが設置された昭和四五年あるいは河道改修工事の概成した昭和五〇年以降、本件水害時までに特に水場川下流部において市街化の進行が著しかったが、前記三に判示のように、水場川は、右河道改修後も、計画対象降雨の規模の降雨に対しては一〇トンポンプで対処し得たものと認められ、右市街化を考慮しても、右計画対象降雨の規模の降雨から生じる洪水に対し、直ちに改修を要すべき危険な状況にあったとは認め難い。
この点につき、控訴人らは、河道改修後も水場川流域では、災害対策の基準降雨内での降雨により、度々浸水被害を生じているのであって、改修を要すべき危険な状態にあったと主張する。そして、<証拠略>によれば、一〇トンポンプの設置された以後も、昭和四九年に水場川河口部付近等において浸水被害があったことが認められるものの、右水害の原因、降雨の規模、被害の範囲等を認めるに足りる証拠はないところ、前記二に判示した水場川流域の自然的特性を考え併せると、右水害の原因は内水湛水によるものであることが窺われ(なお<証拠略>は、昭和四九年に水場川で溢水があった旨の供述をするが、前記のとおり採用し難い。)、それだけでは、水場川が改修すべき危険な状況にあったとはいえない。
そして、その後計画された二〇トンポンプも、現在の危険に備えるものでなく、将来内水管理者が地区水路から水場川に内水を強制排水する施設を設置した場合等における水場川の流出増に対処するためのものであり、かつ、本川である新川の河道の概成の見通しが立つのを待って昭和四九年に立案され、本来の予定を早めて昭和五四年に完成したものであることは、前記(三)に判示のとおりであるから、河道改修後の事情の変化により緊急に整備すべき事情が生じていたことを推認させるものではない。
なお、控訴人らの右主張には、本件水害当時も水場川中・下流部域の内水区域には内水湛水の危険が存在したのであるから、右二〇トンポンプの増設を早めるべきであったとの趣旨も含むものと解せられるところ、内水管理者により水場川への強制排水能力を伴う内水排水施設の設置等がなされない場合に、右二〇トンポンプを増設しても、直ちには内水湛水に対する効果が望めないことは前記2(二)(3)に判示したとおりであるから、右主張は前提を誤るもので失当である。
(六) 以上のとおり、水場川河川計画は格別不合理なものとは認められず、また、本件水害当時の河道の現況とその改修状況に照らして、水場川河口に当時計画中の二〇トンポンプ増設工事を緊急に繰り上げて実施すべき特段の事情があったとも認められないから、右計画が合理性に欠けることを前提として、水場川河川管理の瑕疵をいう控訴人らの主張は、採用できない。また、本件水害は、水場川河川計画の計画対象降雨である生起確率五年ないし一〇年の降雨の規模を大きく上回る八〇年ないし九〇年に一回の規模の、異常な降雨によって惹起されたものであって、治水事業の整備水準に鑑みてやむを得ないものであることは、前記四において認定したとおりであるから、この点からしても、被控訴人らの水場川河川管理につき瑕疵があったとすることはできない。
七 以上のとおりであって、控訴人ら本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、いずれも理由がないから、棄却すべきである。
よって、原判決は相当であり、本件控訴はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 渡辺剛男 菅英昇 筏津順子)
別紙<略>